はじめに
妊娠・出産・育児について、発達障害のある女性向けの実用的な工夫は結婚・妊娠・育児——ライフイベントのたびにつまずく気がするあなたへにまとめてあります。妊娠期の不安そのものについては妊娠中の強い不安・出産が怖いと感じるときをご覧ください。
この記事で扱うのは、そこに含まれていない部分——ASD(自閉スペクトラム症)に固有の、身体と環境の話です。
具体的には、次の四つです。
- 妊娠中の身体の変化が、感覚にどう響くか
- 出産のとき、痛みが医療者に伝わらないことがある
- 病院という環境そのものの負担
- 予測できない赤ちゃんと暮らすということ
妊娠中——身体の変化が、感覚に響く
妊娠は、身体が短期間に大きく変わる時期です。
感覚の受け取り方に特徴がある方にとって、この変化は単なる体調の問題にとどまりません。それまで成り立っていた感覚の均衡が、まるごと組み替えられることになります。
- におい——つわりの時期には、これまで平気だったにおいが耐えがたくなることがあります。もともとにおいに敏感な方では、生活できる範囲がかなり狭くなります
- 触覚——身体を触られる機会が増えます。健診のたびに、必要な処置として触れられます
- 内側の感覚——胎動をはじめ、身体の内側で起きていることを常に感じ続けます。もともと内側の感覚を拾いにくい方は、逆に何が起きているのか分からないという形になることもあります
- 服——体型が変わり、それまで着られていたものが着られなくなります。生地や締めつけに敏感な方には、これが小さくない問題になります
これらは「気にしすぎ」ではありません。 環境が変わったのではなく、自分の身体そのものが変わっていくため、逃げ場が作りにくいのが妊娠期の特徴です。
出産のとき、痛みが伝わらないことがある
この記事でいちばんお伝えしたいのは、ここです。
本書に、こういう報告があります。
「もうすぐ生まれそうだ」と伝えても、信じてもらえなかった。 陣痛が来ても声を出さず、静かに過ごしていたために、まだそんな段階のはずがないと判断された。実際に診察したところ子宮口はすでに全開で、そのまま分娩の準備に入ることになった——。
これは重要です。痛みの強さそのものではなく、痛みの「表れ方」が典型と違うために、周囲が状況を実際より軽く見積もってしまったわけです。
医療の現場では、痛みの程度を表情や声、身のこなしから推し量ることが日常的に行われます。その手がかりが出にくい人がいる、ということは、あまり知られていません。
できることは、あらかじめ自分の癖を伝えておくことです。
痛みを声や表情に出しにくいほうなので、実際より軽く見えるかもしれません。
自分についてのこの一言があるだけで、伝わり方が変わります。母子健康手帳やバースプランに書き添えておく、という方法もあります。
もちろん、どう診るかは担当の医師や助産師が判断することです。ここでお伝えしたいのは、ご自身の特徴を先に共有しておくと、その判断の材料が増えるということです。
病院という環境そのものの負担
もうひとつ、意外に語られないのが入院という環境の負荷です。
本書に寄せられた声を、いくつか挙げます。
- 部屋に人が出入りするのが落ち着かず、陣痛が始まってから八時間、暗い場所にこもって過ごした
- 病棟では、知らない人が同じ空間にいると眠れず、一晩じゅう目が冴えたままだった。騒音と混乱が重なって、不安が最も高い状態になった
- 照明を落としてもらえた。 好きな音楽をかけさせてもらえた。それで大きく違った
- 静かな環境を選び、求めていないときには触られない・話しかけられないようにしてもらった
つまり、同じ出産でも、環境の条件次第で負担がまったく変わるということです。
そして重要なのは、これらは特別に難しい要求ではないという点です。照明、音、人の出入り、声かけの有無。どれも調整の余地があるものです。
伝えておくと、助けになること
本書には、支援する側に向けた工夫が整理されています。それを、ご自身の希望として伝えるときの言葉に置き換えて並べておきます。相手のやり方を指定するというより、自分にはこういう伝わり方が助かる、という共有として使ってください。
- 「言葉ではっきり説明してください」——今から何をするのか、なぜするのかを、そのつど言葉にしてもらう
- 「ほのめかしや例え話ではなく、そのままの言い方で」——遠回しな表現は、意図が伝わらないことがあります。本書には、胎盤を出すために「二人目の赤ちゃんのため」と言われ、双子だと思って怖くなった、という例が出てきます
- 「触る前に、何をするか言ってください」——身体に触れる処置の前に、目的を言葉にしてもらう
- 「担当が代わるときは、その旨を伝えてください」——黙って人が入れ替わると、それだけで状況が読めなくなります
- 「図や書いたものがあると助かります」——口頭だけより、目で見える形のほうが入りやすい方がいます
- 「集まりより、個別に教えてもらうほうが助かります」——集団の指導は、内容以前に場の負荷が大きいことがあります
これらは、わがままではありません。 どこまで応じられるかは施設や状況によりますが、希望として伝えておくこと自体は遠慮しなくてよいことです。妊娠中の早い段階で産科と話しておくと、お互いに準備ができます。
母乳育児——「自然にできる」わけではない
授乳については、経験がかなり分かれます。
本書の著者は、自身が二人とも授乳がうまくいかなかったと書いています。そして、その理由をこう振り返っています。やり方が分からず、しかも誰にどんなふうに頼ればよいのかも見当がつかなかった。 そもそも何をもって普通とするのか、自分の手つきが的外れなのかどうかさえ判断できなかった、と。
そのうえで、こう書いています。自然にできるものだと思っていたが、そうではなかった。
一方で、うまくいった方もいます。個室で、必要なときだけ手を貸してもらえたことが感覚の面でとても助かった、という声もあります。赤ちゃんと座っているだけの時間が、あらゆるものから解放されて心地よかった、という方もいます。
どちらであっても、母親としての能力とは関係ありません。
授乳が強い苦痛になる場合には、続けることの利益より負担のほうが大きくなることがあります。本書も、そこははっきり書いています。母親が保てていることが、子どもにとっての支えの土台になる、と。
新生児期——予測できないものと暮らす
赤ちゃんとの生活で、いちばん堪えるのは何か。本書の記述から浮かび上がるのは、予測できなさです。
- 生活のリズムがまだ無い。 一日の計画が立てられません。予定を組み立てて動く方にとって、これは相当な負荷です
- 睡眠が断続的になる。 ある方は、自分は睡眠がないと頭が働かないので、これが深刻な問題になったと書いています
- 不器用さ・物忘れが増える。 物にぶつかる、物をなくす。そのたびに自分に苛立つ、という状態
そして、周囲は次々に予定を持ち込みます。 外出を勧められ、子育ての集まりへの参加を勧められる。どちらも楽しめないのに、子どものために行かなければと思う——という板挟みも書かれています。
ある方は、率直にこう語っています。心構えのしようがなかった。 育児が実際どういうものかを、事前に知る方法がなかったからだ、と。そして、生まれてからの数週間は「自分にできるわけがない」と思っていた。けれど、自分がどれだけ大変かを率直に外に出したことで、支援につながることができた、とも書いています。
ここは強調しておきたいところです。大変さを隠さないことが、結果的に助けにつながることがあります。
「他のお母さん」と比べてしまうとき
もうひとつ、繰り返し出てくるのが劣等感です。
- 他の母親たちは自分より落ち着いていて、忍耐強く、これほど消耗していないように見えた
- 公園でおしゃべりしたり、お茶をしたりしている。自分は一度も誘われなかった
- 夜に出かけたり、集まりに参加したりしている人がいる。自分は倒れ込むように眠っていた
そして、子ども関係の付き合いが加わります。子ども同士の関係を通じた親の付き合い、誕生会、学校の集まり。 これらをこなしていると、生活と心の安定を保つために必要な一人の時間が、ほとんど残らなくなります。
ここで確認しておきたいことがあります。見えている部分だけを比べても意味がないということです。公園で話している人たちが何を抱えているかは見えません。そして、同じことをするのにかかる負荷が人によって違うという事実は、外からは見えません。
まだ、ほとんど分かっていない
最後に、正直に書いておきます。
ASDのある母親がどれくらいいるのか、そのことが母子にどう影響するのかは、ほとんど調べられていません。 本書が書かれた時点で、専門の研究機関がようやくこのテーマの研究を始めたところだ、と記されています。
つまり、この領域は手探りです。 確立された指針があるわけではありません。
裏を返せば、うまくいかないことがあっても、それはあなたの努力不足ではないということでもあります。まだ誰も、良いやり方を十分に知らないのです。
なお、この記事では薬について扱っていません。服用中のお薬がある方は、必ず主治医とご相談ください。当院では、妊娠を希望される方・授乳中の方について、催奇形性を考慮したうえで治療を検討しています。過去の経過から有益性が上回ると判断する場合には、最小限の薬物療法を検討することもあります。
受診の目安
- 妊娠がわかって、服用中の薬をどうするか迷っている
- 出産の環境について、どこまで相談していいのか分からない
- 産後、眠れない・動けない状態が続いている
- 育児のなかで、自分が保てなくなっている感じがある
- 周囲と比べて落ち込むことが増え、気分の落ち込みが続いている
当院では初診の前にWEB問診にご記入いただきます。初診の時間は問診を含めて30分程度をみています。
まとめ
- 妊娠は自分の身体そのものが変わるため、感覚の負担から逃げ場を作りにくい
- 陣痛の痛みが医療者に伝わらないことがある。 声や表情に出にくいと、実際より軽く見積もられる。自分の癖として先に共有しておくと、伝わり方が変わることがある
- 出産の負担は環境の条件で大きく変わる。 照明・音・人の出入り・声かけは調整できる
- 伝えるとよいのは、言葉ではっきり/例え話を使わない/触る前に説明/担当交代を伝える/目で見える形/集団より個別
- 授乳は自然にできるものではない。 うまくいくかどうかと母親としての能力は関係ない
- 新生児期の負荷の中心は予測できなさ。リズムがなく、計画が立たず、睡眠が断続する
- 大変さを隠さないことが、支援につながることがある
- ASDのある母親についての研究はほとんど無い。うまくいかないのは努力不足ではない
次回は、身体の不調とどう付き合うかを扱います。
参考にした書籍
- サラ・ヘンドリックス『自閉スペクトラム症の女の子が出会う世界』
よくある質問
「発達障害」と「ASD」は、同じものですか。
同じではありません。発達障害は、生まれつきの脳の働き方の違いから生活のしづらさが生じる状態をまとめた呼び方で、そのなかにASD(自閉スペクトラム症)やADHD(注意欠如多動症)などが含まれます。ASDは発達障害のひとつ、という関係です。日常では「発達障害」がASDとほぼ同じ意味で使われることも多いので、どちらの言葉で探されたかを気にしていただく必要はありません。
陣痛のとき、痛みが伝わらないということがあるのですか。
報告されています。痛みの感じ方そのものより、その表れ方が典型と違うために、周囲が状況を実際より軽く見積もってしまうことがあります。声を出さずに静かに耐えていたために「まだ早い」と判断され、実際にはかなり進んでいた、という例が挙げられています。ご自身について「痛みを声や表情で出しにくいほうです」とあらかじめ共有しておくと、伝わり方が変わることがあります。
出産のときに配慮をお願いしてもよいものでしょうか。
お願いしてよいことです。照明を落とす、音楽をかける、人の出入りを減らす、処置の前に説明する——こうした調整で負担が大きく変わったという報告があります。わがままではなく、必要な条件として、妊娠中の早い段階から産科と相談しておくとよいと思います。
母乳がうまくいきません。母親として失格でしょうか。
そうではありません。授乳は自然にできるものと思われがちですが、実際には教わって身につける部分が大きいものです。うまくいかないことは、母親としての能力とは関係ありません。授乳がご自身にとって強い苦痛になっている場合、続けることの利益より負担のほうが大きくなることもあります。
妊娠中の薬について知りたいです。
この記事では薬については扱っていません。服用中のお薬がある方は、必ず主治医とご相談ください。当院では、妊娠を希望される方・授乳中の方について、催奇形性を考慮したうえで治療を検討しています。過去の経過から有益性が上回ると判断する場合には、最小限の薬物療法を検討することもあります。