うつ病や適応障害で休職しているうちに、「このまま復職できる気がしない。もう退職したい」という気持ちになる方は少なくありません。そのとき、ほぼ必ずセットで出てくるのがこの心配です——「退職したら、傷病手当金は打ち切られてしまうのではないか」。
結論からお伝えすると、一定の条件を満たせば、退職した後も傷病手当金は引き続き受け取れます。健康保険の「資格喪失後の継続給付」と呼ばれる仕組みです。ただしこの制度には、知らないと受給資格そのものを失ってしまう落とし穴がいくつかあります。代表的なのが「退職日にうっかり出勤してしまう」ことです。
この記事では、退職後も傷病手当金を受け取るための2つの条件、退職日の過ごし方の注意点、退職後ならではのルール(一度働けるようになると再開できない)について、協会けんぽ・厚生労働省の公開情報にもとづいて、福岡県春日市の精神科・心療内科の視点から整理します。
なお、健康保険組合(会社の健保)に加入している方は、細かい取り扱いが協会けんぽと異なる場合があります。この記事は一般的な仕組みの解説として読んでいただき、ご自身のケースは必ず加入先の保険者にご確認ください。
前提の整理——傷病手当金は「在職中の制度」が基本
傷病手当金は、健康保険の被保険者が病気やけがの療養のため働けず、給与が受けられないときに支給される制度です。支給額はおおむね給与の3分の2に相当する額で、支給期間は支給開始日から通算1年6か月です。基本の仕組みや申請の流れは傷病手当金についてで詳しく解説しています。
本来は「会社に在籍している被保険者」のための制度ですから、退職して被保険者資格を失えば、そこで終わりになるのが原則です。しかし、療養の途中で退職せざるを得なかった人がその日から収入の支えを失うのは酷だ、という考えから、例外として設けられているのが資格喪失後の継続給付です。
大事なのは、これが「退職後に新しく申請できる制度」ではなく、在職中に始まっていた(または始められる状態にあった)受給を、退職後も続けられる制度だという点です。この性格を押さえておくと、後で説明する条件や落とし穴が理解しやすくなります。
その前に——「もう辞めたい」という気持ち自体が、症状のことがあります
制度の説明に入る前に、精神科の立場からひとつだけお伝えしたいことがあります。それは、退職という重大な決断は、療養中には先送りするのが原則だということです。
うつ状態のときは、脳の疲れのために、ものごとを実際より悪く受け取る傾向が強まります。産業保健の分野の書籍でも、うつ病の症状のひとつとして「休職がこのまま続けば退職に追い込まれ、生活が破綻してしまう」といった悲観的な思い込みが生じやすいことが指摘されています。「もう辞めるしかない」という切迫した気持ちは、冷静な判断の結果ではなく、病状がそう思わせている場合が少なくないのです。
また、うつ状態では集中力や決断力そのものが低下します。体調が回復してくると、漠然とした絶望感が薄れ、「この先どうするか」を具体的に考える力が戻ってきます。退職するかどうかを本当の意味で判断できるのは、その段階になってからです。
幸い、傷病手当金の制度は「退職を急がなくても困らない」ようにできています。在職中に休職して受給を始めれば、生活の支えを確保したまま療養に専念でき、そのうえで回復してから、復職か退職かをゆっくり選べます。退職はいつでもできますが、退職の取り消しはできません。まずは判断を保留し、休職という形で時間を確保することを検討してみてください。
退職を決める前に、確認しておきたい4つのこと
それでも退職を視野に入れる場合、あるいは休職と迷っている場合は、次の4点を先に確認しておくと、判断の材料が揃います。産業医向けの実務書でも、休職に入る際に本人や家族が会社に確認しておくべき項目として挙げられている内容です。
- 有給休暇の残り日数——休職や退職の前に、まず有給で療養できる期間がどれくらいあるか
- 社内の病気休暇・休職制度の内容——就業規則上、休職できる期間の上限はどれくらいか。入社年数によって異なることが多い項目です
- 傷病手当金の申請方法——申請書の入手先、会社経由で出すのか、締め切りはいつか
- 健康保険の被保険者期間——後述する「継続1年以上」の条件を満たしているか
体調が悪くて自分で確認するのがつらいときは、ご家族が代わりに人事担当者へ問い合わせることもできます。診断書の提出とあわせて、家族が会社と情報のやり取りをする形は実務上もよく行われています。
これらを確認した結果、「休職できる期間がまだ十分残っている」とわかれば、退職を急ぐ理由はひとつ減ります。逆に「休職期間の上限が近い」「入社1年未満で継続給付の条件を満たせない」という場合は、退職のタイミングが給付に直結しますから、以下の条件をより慎重に確認してください。
条件①——被保険者期間が「継続して1年以上」あること
1つめの条件は、資格喪失日の前日(=退職日)までに、健康保険の被保険者期間が継続して1年以上あることです。
ポイントを整理します。
- 数えるのは健康保険の被保険者としての期間です。転職して会社が変わっていても、間を空けずに健康保険の被保険者資格が続いていれば、通算して「継続1年以上」と扱われます。
- 逆に、途中に1日でも空白があると「継続して」の要件を満たさなくなることがあります。転職の際に数日間どの健康保険にも入っていなかった、という場合は注意が必要です。
- 国民健康保険に入っていた期間や、家族の扶養(被扶養者)だった期間は含まれません。あくまで自分が健康保険の被保険者だった期間です。
- 任意継続被保険者だった期間も、この1年には算入されません。
入社1年未満で休職・退職する場合、この条件を満たせず、退職後の継続給付が受けられないことがあります(在職中の分は、被保険者期間が1年未満でも受給できます)。退職のタイミングを考えるうえで大きな分かれ目になるため、ご自身の被保険者期間は退職を決める前に確認しておきましょう。
条件②——退職時に傷病手当金を「受けている」か「受けられる状態」であること
2つめの条件は、資格喪失時(退職日)に、傷病手当金の支給を受けているか、または受けられる状態であることです。
「受けられる状態」というのは、実際にはまだ受給していなくても、労務不能で待期3日間(連続した3日間の休み)が完成しており、支給の要件を満たしている状態を指します。たとえば、休職せず有給休暇で療養していて傷病手当金を請求していなかった場合でも、退職日の時点で要件を満たしていれば継続給付の対象になり得ます。有給消化中は給与が出ているため実際の支給は始まっていなくても、「受けられる状態」として条件を満たし得る、という整理です。
逆にいうと、退職日の時点で「働けない状態」であることが証明できなければ、この条件は満たせません。在職中に医師の診察を受けておらず、退職後に初めて受診した、という場合には、退職日時点の労務不能を証明することが難しくなります。退職を考えるほど体調が悪いのに医療機関にかかっていない、という方は、退職の前に一度受診しておくことが、体調の面でも制度の面でも大切です。
最大の落とし穴——退職日に出勤してはいけない
継続給付でもっともよく知られた注意点が、退職日の出勤です。
退職日に出勤して労務に服したと扱われると、「退職日の時点で労務不能により傷病手当金を受けられる状態だった」とはいえなくなり、継続給付の資格を失って、退職後の分が一切受け取れなくなるおそれがあります。
現実には、こんな場面で起こりがちです。
- 最終日だから、とあいさつ回りのために出社した
- 荷物の整理や備品の返却のために半日だけ出勤扱いにしてもらった
- 総務から「最終日だけは出勤扱いにしておきますね」と事務処理上、出勤扱いにされていた
あいさつや私物の引き取りのための短時間の来社がただちに「労務に服した」とされるかどうかは、保険者の個別の判断によります。しかし、退職後1年6か月近くにわたる給付がかかった場面で、あいまいなリスクを取る必要はありません。退職日は出勤せず、療養に専念するのが原則と考えてください。備品の返却などは郵送や家族への依頼で済ませる、書類のやり取りは退職日より前か後にずらすなど、会社と事前に相談しておくと安心です。事務処理上の扱いが心配な場合は、退職前に加入先の保険者へ「退職日をこう過ごす予定だが問題ないか」を確認しておくことをおすすめします。
退職後のルール——一度「働ける」状態になると、再開はできない
在職中と退職後とで、受給のルールには大きな違いが1つあります。
在職中は、いったん復職して支給が止まっても、同じ病気が悪化して再び働けなくなれば、通算1年6か月の残り期間の範囲で支給が再開されます。2022年の制度改正で支給期間が「通算」になったため、試し出勤や段階的な復職とも両立しやすい仕組みです。
ところが退職後の継続給付では、労務不能の状態が退職時から継続していることが前提です。退職後にいったん「働ける状態」になると、その時点で支給は終了し、その後同じ病気で再び働けなくなっても、支給は再開されません。
これは実務上、次のような判断に関わってきます。
- 退職後、体調が上向いてきたからと短時間のアルバイトを始める
- ハローワークで求職の申し込みをする(「働ける状態」であることが前提の手続きです)
こうした行動が「労務可能になった」と判断される材料になり得ます。もちろん、回復して働けるようになること自体は治療のゴールであり、喜ばしいことです。問題は、まだ回復しきっていない段階で焦って動いてしまうことです。体調に波があるのはうつ病の回復過程では自然なことで、「良くなった気がする」時期に無理をして悪化させてしまうケースは診察室でもよくみられます。就労を再開するかどうかは、制度の面でも後戻りができない判断になるため、主治医と相談しながら慎重に決めていくことをおすすめします。
支給期間と金額は在職中と同じ枠組み
退職後の継続給付だからといって、期間や金額が別枠になるわけではありません。
- 支給期間は、在職中の分と合わせて支給開始日から通算1年6か月の枠内です。退職したからといってリセットされたり、延長されたりはしません。
- 金額も在職中と同じ計算方法で、おおむね直近の標準報酬月額をもとにした日額の3分の2に相当する額です。
なお、退職後に国民健康保険へ切り替えたり、家族の扶養に入ったりしても、継続給付は在職中に加入していた元の保険者(協会けんぽ・健保組合)から受け取ります。ここで知っておきたいのが、国民健康保険には原則として傷病手当金の制度がないことです。自営業やフリーランスの方に傷病手当金がないのはこのためで、退職後の生活設計を考えるうえでも、「継続給付は元の健康保険からの給付であり、切り替え先の国保から出るものではない」という整理を押さえておいてください。
申請手続きは在職中とほぼ同じで、医師の意見欄(労務不能の証明)を毎回記入してもらいながら、保険者に申請書を提出していきます。在職中は会社経由で提出することが多いのに対し、退職後はご自身で直接保険者に提出する形になるのが一般的です。
退職後の申請を「切らさない」ための3つのコツ
退職後の継続給付は、在職中と違って会社の人事担当者がチェックしてくれません。申請の抜けや証明の切れ目が起きやすいので、次の3点を意識してください。
- 通院を定期的に続ける。申請書の医師の意見欄は、実際に診察した期間についてしか書けません。通院が空くと、その期間の労務不能を証明できず、申請できない期間が生じるおそれがあります。体調が悪くて外出がつらい時期こそ、通院だけは切らさないことが大切です。
- 申請の対象期間に空白を作らない。1〜2か月ごとなど、一定のリズムで区切って申請していくと、書き漏れや出し忘れを防げます。申請から振込までの流れや、支給が遅れがちなケースの対処は傷病手当金はいつ振り込まれる?で詳しく解説しています。
- 体調の記録をつけておく。睡眠・食事・活動・気分を簡単にメモしておくと、診察で状態を正確に伝えやすくなり、医師の意見欄の記載の裏づけにもなります。体調の回復は日単位では波があっても、週・月単位で見ると変化がつかめるものです。この記録は、就労を再開できる状態かどうかを主治医と判断するときの材料にもなります。
失業保険・年金との関係は「同時にはもらえない」とだけ押さえる
退職後のお金の制度として、傷病手当金のほかに雇用保険の基本手当(いわゆる失業保険)や年金があります。詳細は複雑なので、ここではごく一般的な原則だけお伝えします。
- 失業保険との関係: 失業保険は「働ける状態で求職している人」への給付なので、「働けない」ことが前提の傷病手当金とは同時に受け取れません。働けない間は失業保険の受給期間延長の手続きをしておき、回復してから失業保険に切り替える、という順番が一般的です。
- 老齢年金との関係: 退職して被保険者でなくなった後は、老齢厚生年金などを受けている場合、傷病手当金との間で調整(原則としてどちらか、年金額によっては差額支給)が行われます。
いずれも個々の状況によって扱いが変わるため、具体的な手続きや金額は、加入先の健康保険(協会けんぽ・健保組合)とハローワーク・年金事務所に必ずご確認ください。
当院でのサポート——退職を決める前に、一度ご相談ください
当院(福岡県春日市の精神科・心療内科)でも、休職中の方や退職を検討している方の診療を日常的に行っています。
体調が悪いときは、「もう辞めるしかない」という考えに気持ちが傾きやすいものです。しかしこの記事で見てきたとおり、その気持ち自体が症状の影響を受けていることがあり、また退職のタイミングや退職日の過ごし方ひとつで、その後1年以上の生活の支えが左右されます。退職という選択自体を否定するものではありませんが、判断は体調がある程度整理できてから、制度の確認を済ませてからでも遅くありません。休職という選択肢も含めて、休職についてのページも参考にしてください。
当院では、休職中の方の診断書は病状の変化に合わせて1か月ごとに発行し、通院は2週間に一度を目安にお願いしています。退職後の継続給付の申請でも、傷病手当金の申請書には毎回医師の意見欄の記入が必要ですから、定期的な通院はそのまま申請の裏づけにもなります。退職を迷っている段階でのご相談も、診察のなかで一緒に考えていきます。
まとめ——2つの条件と3つの注意点
最後に、この記事の要点を整理します。
退職後も傷病手当金を受け取るための2つの条件
- 退職日までに健康保険の被保険者期間が継続して1年以上あること(国保・扶養・任意継続の期間は含まない)
- 退職日の時点で傷病手当金を受けているか、受けられる状態であること
3つの注意点
- 退職日に出勤しない。あいさつや荷物整理でも、出勤扱いになると資格を失うおそれがあります
- 一度働ける状態になると再開できない。アルバイトや求職申し込みは、主治医と相談してから
- 国民健康保険には傷病手当金が原則ない。継続給付は元の健康保険から受け取ります
そして何より、退職という決断そのものを急がないこと。「もう辞めるしかない」という気持ちは病状の影響を受けていることがあり、判断力が戻るのは体調が回復してからです。有給の残り・休職制度・被保険者期間を確認したうえで、休職で時間を確保するという選択肢も含めて検討してください。
支給期間は在職中と合わせて通算1年6か月の枠内で、金額の計算も在職中と同じです。細かい取り扱いは協会けんぽと健保組合、また個々の事情によって異なりますので、最終的な確認は必ず加入先の健康保険にお問い合わせください。
体調のことでつらい状態が続いている方、退職と休職のどちらを選ぶか迷っている方は、一人で抱え込まずにご相談ください。WEB予約からご都合のよい日時をお選びいただけます。
よくある質問
退職日にあいさつのため半日だけ出勤しました。傷病手当金はどうなりますか?
退職日に出勤して労務に服したと扱われると、「退職時に傷病手当金を受けられる状態」という継続給付の条件を満たさなくなり、退職後の分が受け取れなくなるおそれがあります。あいさつや荷物の整理のための短時間の来社がどう扱われるかは保険者の判断によるため、退職日が近い方は事前に加入先の健康保険(協会けんぽ・健保組合)に確認しておくことを強くおすすめします。
退職後、体調が良くなって少しアルバイトをしました。また悪化したら傷病手当金は再開できますか?
できません。退職後の継続給付は「労務不能の状態が退職時から続いていること」が前提で、いったん働ける状態になった時点で支給は終了し、その後同じ病気で再び働けなくなっても再開されない、というのが協会けんぽの取り扱いです。在職中の受給とはこの点が大きく異なるため、就労を再開するかどうかは慎重に判断する必要があります。
退職して国民健康保険に切り替えたら、傷病手当金はもらえますか?
国民健康保険には、原則として傷病手当金の制度がありません。退職後に受け取れるのは、あくまで在職中に加入していた健康保険からの「資格喪失後の継続給付」です。継続給付の条件を満たしていれば、退職後に国民健康保険や家族の扶養に切り替えた後でも、元の保険者から支給を受けられます。
退職後の傷病手当金と失業保険(雇用保険の基本手当)は同時にもらえますか?
同時には受け取れません。傷病手当金は「働けない人」への給付、失業保険は「働ける状態で仕事を探している人」への給付であり、前提が矛盾するためです。働けない間は失業保険の受給期間延長の手続きをしておき、回復後に切り替えるのが一般的な流れとされています。具体的な手続きや退職後に受け取る老齢年金との調整については、加入先の健康保険やハローワークにご確認ください。