福岡県春日市須玖北4丁目34 2階
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はじめに

眠れていないのは見ていて分かる。食事の量も減った。それなのに、「一度病院で相談してみない?」と言うと、返ってくるのは「大丈夫」「病気じゃない」――。

こういうとき、ご家族の側には「治療を拒まれた」「頑固になってしまった」「認めたくないだけなのだろう」という受け取り方が生まれやすいものです。そして、そのどれもが、話をこじらせる方向に働きます。

先に、いちばん大事なお断りを置きます。 自分や他の人を傷つけそうな言動があるとき、食事も水分もほとんど取れていないときは、この記事に書いてあることをどれも当てはめないでください。通院中であれば主治医に連絡し、命に関わる切迫した状況ではためらわず救急(119)を利用してください。理解のしかたを整理している場合ではありません。

もうひとつのお断りです。暴力があるとき、あるいは怒鳴る・脅す・お金を握る・従わせるという形で強く支配されているときも、この記事の話をどれも当てはめないでください。 身の安全を確保することが先になります。無理に説得や交渉をしようとせず、まず主治医や医療機関にご相談ください。そして、ここに書くことは、責任を帳消しにするための説明ではありません。 病気があってもなくても、何をしたかの責任はその人の側に残ります。

そのうえで、もうひとつ置いておきたいことがあります。この記事は、「病識」という言葉をご本人を測る道具としてお渡しするものではありません。 読んで「この人にはある/ない」と結論を出していただく必要はまったくありません。判定がどう転んでも、ご家族が困っているという事実は変わりませんし、その困りごとはそれ自体で相談に値します。

この記事が扱うのは、なぜそう見えるのかという部分です。実際の関わり方のほうは、本人が受診を嫌がるとき、家族はどう動く?の領分です(何が書いてあるかは後半で挙げます)。お酒や薬の問題を本人が認めないという形については、依存を認めない家族への接し方があります。

「病気だと思っていない」は、一つの状態ではない

精神医学の用語では、よく似て見える二つのものを分けています。

病感(びょうかん)は、うまく言葉にできないけれど、いつもの自分とは何かが違う、という実感のほうです。病識(びょうしき)は、自分が病気であると自分で分かっていることのほうです。専門書『精神症候学』は、この二つをそもそも別の系統に属するものとして位置づけた古い研究を紹介しています。

ここが大事なところです。二つは、片方が強くなればもう片方に進む、という順番の関係ではありません。 別々のものなので、別々に動きます。

分けてみると、次の三つが同じものではないことが見えてきます(これは、この記事の側の整理です)。

  1. どこか変だと感じていること
  2. それを心の不調として理解すること
  3. 治療が必要だと認めること

この三つは、そろって現れるとは限りません。「眠れないのはつらい」と言いながら「でも病院に行くほどじゃない」と言う――これは矛盾ではなく、1はあるけれど3のほうはない、という状態です。「調子が変なのは自分でも分かっている」と言いながら「心の病気ではない」と言うのも、1はあって2がない形です。

ですから、「病識がない」という一言でまとめてしまうと、実際に起きていることのほうが見えなくなります。 どれがあって、どれがないのか。それが分かると、次に何を話せばよいのかも変わってきます。

なお、専門書は、統合失調症の場合、病感のほうはあっても病識のほうへはなかなか届きにくいとされている、と書いています。「本人も何かおかしいとは感じているのに、病気だとは思えない」という形が、そこでは想定されているわけです。

ただし、これは病名を当てるための手がかりではありません。 専門書がここで書いているのは統合失調症についてですが、この記事は、この組み合わせを病名の手がかりとしては扱いません。 当てにいく必要はありませんし、ご家族に必要なのは、見えていることを持っておくことのほうです。

病識は「ある・なし」の二つに分かれない

ここが、この記事でいちばんお伝えしたいことです。

専門書は、病識を二つの認識に分けて考える整理を紹介しています。ひとつは「自分が何かの病気にかかっていて、それは心の病気だ」という認識。もうひとつは「自分に起きているこの変化は、どこか病的なものだ」と気づく力です。そして、この二つは互いの結びつきが弱く、どちらもあるかないかの二つには割り切れない、と紹介されています。

さらに、病識を「病気についての知識を持っているか」「かかったという事実を知っているか」だけの問題とはせず、自分という存在全体についての理解の一部として見る立場も紹介されています。つまり、知識として知っているかどうかで決まる話ではないのです。

これは、ご家族の実感とも合うところではないでしょうか。

  • 昨日は「たしかにおかしいかもしれない」と言っていたのに、今日は「何でもない」に戻っている
  • 医師の前では素直に聞いているのに、家に帰ると「あの話は自分には関係ない」になる
  • 体の調子については認めるのに、気分の落ち込みについてだけ認めない

この記事は、こうした揺れやばらつきを、「昨日は病識があったのに今日は消えた」という話としては受け取りません。もともと、あるかないかの二つに分かれるものではないとされているのなら、日によって、場面によって見え方が違うことも、不思議ではないからです。ただし、日ごとの揺れをそう説明できるとまで専門書が書いているわけではなく、ここは、この記事の側の読み方です。

「病識がない」は、外から見て下される判断である

押さえておきたい点が、もうひとつあります。

専門書がこの話題を書くときの言い方は、こうです。病識が欠けている――ただし、そう判断しているのは観察者である。 「観察者が」という限定が、そこに置かれています。この記事は、そこを次のように受け取ります。「病識がない」は、ご本人の内側に固定的に備わっている性質のラベルではなく、診察する側が、そのときに下している判断だ、ということです。

なお専門書は、統合失調症について、病識が欠けていることが診断の根拠にされ、逆に病識が現れることが症状の落ち着いてきたことの目印とされる、と書いています。医療の側が道具として使っている、ということです。

ここから言えることが二つあります。

ひとつ。ご家族が「この人には病識がない」と結論を出さなくてよい、ということです。 判定はご家族のお仕事ではありません。

もうひとつ。「病識がない」は、わがままでも、性格でも、「認めたくないだけ」でもない、ということです。 意地を張っているのだろう、と考える必要はありません。「自分の言い方が悪かったからだ」とご自身を責める必要もありません。 そのうえで、伝え方には役に立つ工夫があります。冒頭で挙げた記事に、その工夫がまとまっています。「工夫は無駄だ」という話ではありません。 「うまくいかないのはご家族のせいだ」という話ではない、ということです。

ご家族が本人を責める材料にも、ご自身を責める材料にもなりません。心の不調がご家族の対応のせいで起こるわけではないのと同じことです。

念のため書き添えます。ここで言っているのは、「病識がない」という言い方が外から下される判断だということです。ご本人の側では何も起きていない――そう読まないでください。病気の性質として病識が届きにくくなることがある、という説明(統合失調症の家族ができること家族が統合失調感情障害と診断されたらで扱っています)と、矛盾するものではありません。

ただし、ここは片側に振れやすいところなので、もう一度書いておきます。「わがままではない」と「何をしても仕方がない」は、別の話です。 暴力や脅し、支配のある関係では、身の安全のほうが先です。病気があってもなくても、何をしたかの責任はその人の側に残ります。

背景は、一つとは限らない

同じ「病気だと思っていない」に見えても、その裏側で起きていることが同じだとは限りません。

専門書は、病気によって背景に質的な違いがあるとする立場を紹介しています。物事を判断する力そのものが影響を受けている側の問題として位置づけられる場合と、自分と自分でないものの区切りや、自分が自分であるという感覚の側の変化の表れとして位置づけられる場合がある、というものです。専門書はこれを、神経の病気の側から見た病識と、精神医学から見た病識の差だと言い換えることもできる、と書いています。「そういう立場が紹介されている」のであって、そう決まっているとは書かれていません。

後者の「自分と自分でないものの区切りの側の変化」については、させられ体験とは?考えや体の動きを、自分がおこなっていると思えなくなるときで説明しています。

ここは慎重にお読みください。これは、どちらなのかをご家庭で見分けるための材料ではありません。

  • この記事は、見分け方を書きません。 外から見える言葉や態度から背景を確かめる手順を、ここでお渡しすることはしません
  • まだ病名がついていない段階では、そもそもどの説明が当てはまるかも決まっていません
  • ご本人が受診されたときに、診察のなかで確かめていくことです

この節を置いたのは、見分けていただくためではなく、「同じように見えるのだから同じ理由だろう」という前提を外していただくためです。ご家族が「前に読んだ話と同じだから、同じ対応でいいはずだ」と考えて行き詰まる、ということが起こりにくくなります。

体の病気の側にも、同じ形の記載があります

もうひとつ付け加えておきます。専門書は、脳の病変によって、体に麻痺があるのにその麻痺を無視したり認めなかったりする状態が起こることを記載しています。麻痺そのものは否定しないけれど、気にしている様子がない、という形も別に記載されています。なお専門書が挙げている範囲は麻痺だけではなく、目が見えない、言葉が出ないといった別の形も含まれています。麻痺はその一例です。

ここを「心の病気と体の病気は似ている」という話として読まないでください。 ひとつ前の節に書いたとおり、専門書がその二つを並べているのは、むしろ違いのほうを述べるためです。

そのうえで、この記事は次のように受け取ります。「自分の身に起きている変化を、変化として受け取れない」ことは、心の病気に限った話ではない。 「認めたくない気持ち」や「気の持ちよう」だけが理由ではない、と医学のなかで以前から扱われてきた、ということです。

「まだ病名がついていない」のと「本人が病気だと思っていない」のは別

ここも混ざりやすいところです。

医師の側が診断を決めきれていない、という状況があります。これは、ご本人が病気だと思っていないこととは、まったく別のことです。診断がはっきりしないまま治療を始めることはありますし、それは適当に扱われているという意味でもありません。この点は診断名がつかない・はっきりしないが扱っています。

同じように、「治療を拒んでいる」と「病気だと思っていない」も別のことです。 前者は意思の話、後者は理解のしかたの話です。

  • 理解は届いていないけれど、意思として拒んでいるわけではない、という場合があります
  • 病気だとまでは思っていないけれど、「眠れないのはなんとかしたい」から治療につながる、という場合もあります

ですから、「病気だと分かってもらえないうちは何も始められない」ということにはなりません。この二つを分けて考えると、ご家族の側の見え方も変わってきます。 「認めようとしない人」を相手にしているのではなく、「まだ届いていないところがある人」を相手にしている、ということになるからです。

いま「病気じゃない」と言っていることは、この先ずっとという意味ではない

先ほど触れたとおり、専門書は、統合失調症について、病識が現れることを症状の落ち着いてきたことの目印とする、と書いています。これは重症度をはかる目盛りという話ではなく、医療の側がそういう使い方をしている、という記述です。

そこから直ちに言えるのは統合失調症についてだけですが、この記事の側から言えば、こうなります。いま「病気じゃない」と言っていることは、この先ずっとそうだという意味ではありません。少なくとも、動かないものとしては扱われていない、ということです。

一方で、逆のことも書いておかなければなりません。「治療を始めれば必ず分かるようになる」とも言えません。 そして、分かったあとがゴールというわけでもありません。専門書は、急性の精神病のあとに、病気に対してどういう態度をとるか――これを「構え」と呼んでいます――が問題にされる、と書いており、その形をいくつかに分けた古い整理を紹介しています。絶望する形、新しい生き方として引き受ける形、なかったことにしてしまう形などです。

「病識がついたかどうか」の一点で区切れる話ではない、ということです。

なお、暴力や強い支配のある関係では、変わるのを待つことより身の安全のほうが先です。 この節は、待てば変わるという意味ではありません。

すでに病名がついている場合

ここまでは、病名を問わない話として書いてきました。すでに診断がついていて、その病気ごとの具体的な話をお探しの場合は、それぞれの記事があります。統合失調症については統合失調症の家族ができること、統合失調感情障害については家族が統合失調感情障害と診断されたら、食事の問題については家族の食事が心配なとき、もの忘れが気になる場合はそのもの忘れ、「歳のせい」と言い切れますか、妄想があると説明を受けたときの接し方については妄想とは?をご覧ください。

ご家族の側でできること

冒頭で送り先として挙げた本人が受診を嫌がるとき、家族はどう動く?には、具体的な声のかけ方、話を持ち出すタイミング、精神科ではなく内科を入口にする方法、予約や付き添いといった実務の支え方がまとめてあります。ここでは、この記事の話から出てくることだけを書きます。

1. 判定しようとしなくてよい

「病識があるかどうか」は、外から見て下される判断です。ご家族がそれを引き受けると、会話が試験のようになっていきます。「分かっている?」「本当にそう思ってる?」と確かめたくなり、確かめられる側は身構える。判定を降ろすというのは、この試験をやめるということです。

そして、判定を降ろしても、ご家族の困りごとは残ります。眠れない、食べていない、家の空気が重い。そちらは判定と関係なく、そのまま相談していただける事柄です。

2. 見えていることを、そのまま持っておく

判定の代わりに役に立つのは、見えていることのほうです。何が、いつごろから、どう変わったか。ご家族が心配されている当のご本人が受診され、同席に同意されている場合には、こうした具体的な様子を診察の場で伝えていただけます。

ただし、目の前で様子を伝えること自体が、あとで責められるもとになる関係もあります。 暴力や強い支配があるときは、同席という形を無理にとる必要はありません。その場合は、ご自身の受診としてご相談ください。何があったのかを話さないままでも受診していただけます。話さないでいることが体調に響いているようなら、そのことのほうを扱えます。

そうした事情がないときは、伝えていただいた具体的な様子が診断や治療の助けになります。この点は統合失調症の家族ができることそのもの忘れ、「歳のせい」と言い切れますかでも触れています。

3. 「病気だと分かってもらう」を目標にしない

上に書いたとおり、理解が届くことと治療につながることは、同じ順番で進むとは限りません。治療の入口は、「病気だと分かること」でなくてかまわないということです。ご本人が困っていること――眠れない、疲れが取れない――のほうは、病気だと思っていなくてもご本人の側に残っています。そこを入口にする具体的な工夫は、上に挙げた記事が扱っています。

受診の目安

次のような状態が続いているときは、病名の話をいったん置いて、相談をお考えください。

  • 眠れない、食事が取れない、体重が落ちてきているといった変化が続いている
  • 仕事や家事、身のまわりのことができなくなってきている
  • ご家族の側が眠れなくなっている、気分の落ち込みが続いている(ご家族ご自身のご相談として受診していただけます

なお、上の1つめ・2つめはご本人の様子です。当院ではご家族だけでのご相談は受け付けていません。 ご本人が受診でき、同席に同意されている場合には、ご家族が同席していただけます。ご本人が受診できない状況では、下記のとおり公的相談先や、受診を予定している医療機関への問い合わせをご案内しています。

そして、繰り返しになりますが、自分や他の人を傷つけそうな言動があるとき、食事も水分もほとんど取れていないときは、待たないでください。通院中であれば主治医に連絡し、命に関わる切迫した状況ではためらわず救急(119)を利用してください。

当院での実際

当院は福岡県春日市の精神科・心療内科です。ご相談は、まずWEB予約(デジスマ)でご予約のうえ、初診前のWEB問診にお答えいただく形をとっています。初診の所要時間の目安は、問診を含めて30分程度です。通院を始めた場合は、2週間に一度の通院が基本で、再診の所要時間の目安は5分前後です。

ご家族のみのご相談はお受けしていません。ご家族が心配されている当のご本人が受診され、同席に同意されている場合には、ご家族が同席していただけます。そのご本人がどうしても受診できない状況の場合は、お住まいの地域の保健所、市区町村の精神保健相談、精神保健福祉センターなどの公的相談先、または受診を予定している医療機関への問い合わせをご案内しています。

なお、当院の診療対象は18歳以上の方です。また、認知症については積極的な診療は行っておりません(老年期のうつ病は診療しています)。

まとめ

「病気じゃない」という一言の中身は、一つではありません。いつもと違うという実感(病感)と、自分が病気だと分かること(病識)は別のものです。そして専門書は、病識そのものについても、二種類の認識に分けたうえで、どちらもあるかないかの二つには割り切れないという整理を紹介しています。

そして「病識がない」は、外から評価する側が下している判断です。ご本人の性格でも、わがままでもありません。ご家族が判定する必要はなく、ご家族が責められる話でもありません。背景の仕組みが同じとは限りませんが、それをご家庭で見分ける必要もありません。診察のなかで確かめていくことです。

いま「病気じゃない」と言っていることは、この先ずっとという意味ではありません。 ただし、治療を始めれば必ず分かるようになる、とも言えません。分かるかどうかの一点で区切れる話ではない、というのがこの記事の見かたです。

判定がどうであっても、ご家族が困っているという事実は変わりません。 その困りごとのほうを、そのままお持ちください。

なお、自分や他の人を傷つけそうな言動があるとき、食事も水分もほとんど取れていないときは、この記事の話をどれも当てはめず、通院中であれば主治医に連絡し、命に関わる切迫した状況ではためらわず救急(119)を利用してください。暴力や強い支配のある関係でも同じです。この記事の話をどれも当てはめず、身の安全の確保を先にしてください。無理に説得や交渉をしようとせず、まず主治医や医療機関にご相談ください。病気があってもなくても、何をしたかの責任はその人の側に残ります。


参考にした書籍(要約・再構成。原文の転載ではありません):

  • 精神症候学(濱田秀伯)

よくある質問

「病識」と「病感」は、どう違うのですか。

専門書は、この二つを別の体験として扱っています。病感のほうは、うまく言葉にできないけれど、いつもの自分とは何かが違う、という実感です。病識のほうは、自分が病気であると自分で分かっていることです。専門書が紹介しているのは、この二つをそもそも別の系統に属するものとして位置づけた古い研究です。ですから、「調子が変なのは自分でも分かっている」と言いながら、「心の病気ではない」「病院に行くほどではない」と言う――そういう組み合わせが成り立ちます。矛盾しているわけではなく、別のものだから別々に動くのです。

「本人には病識がない」と説明を受けました。治療を拒んでいるということですか。

同じではありません。治療を受けるかどうかは意思の話で、自分に起きていることを病気として理解できるかどうかは、理解のしかたの話です。理解が届いていないだけで、意思として拒んでいるわけではない場合があります。逆に、病気だとまでは思っていなくても「眠れないのはなんとかしたい」と治療につながる場合もあります。この二つを分けて考えると、ご家族の側の見え方も変わってきます。

家族が「この人には病識がない」と判断してよいのでしょうか。

判定はご家族のお仕事ではありません。専門書がこの話題を書くときの言い方は、病識が欠けている――ただし、そう判断しているのは観察者である、というものです。この記事はそこを、「病識がない」がご本人の内側にあるラベルではなく、診察する側がそのときに下している判断だ、という意味に受け取っています。ご家族に必要なのは判定ではなく、見えていること――何が、いつごろから、どう変わったか――を持っておくことのほうです。それは診察の場で役に立ちます。なお、暴力や脅し、強い支配のある関係では、この記事の話をどれも当てはめず、身の安全の確保を先にしてください。病気があってもなくても、何をしたかの責任はその人の側に残ります。

同じ「病気だと思わない」でも、背景が違うことがあるのですか。

専門書は、病気によって背景に質的な違いがあるとする立場を紹介しています。物事を判断する力そのものが影響を受けている側の問題として位置づけられる場合と、自分と自分でないものの区切りや、自分が自分であるという感覚の側の変化として位置づけられる場合がある、というものです。ただしこれは、ご本人の場合がそのどちらに当たるのかを、ご家庭で見分けるための材料ではありません。この記事は見分け方を書きませんし、まだ病名がついていない段階では、そもそもどの説明が当てはまるかも決まっていません。ご本人が受診されたときに、診察のなかで確かめていくことです。なお、脳の病変によって、体に麻痺があるのにその麻痺を認めない状態が起こることも記載されています。目が見えない、言葉が出ないといった別の形も挙げられており、麻痺はその一例です。「認めたくない気持ち」だけが理由ではない、ということです。

家族だけで先に相談に行くことはできますか。

当院ではご家族のみのご相談はお受けしていません。ご家族が心配されている当のご本人が受診され、同席に同意されている場合には、ご家族が同席していただけます。そのご本人がどうしても受診できない状況の場合は、お住まいの地域の保健所、市区町村の精神保健相談、精神保健福祉センターなどの公的相談先、または受診を予定している医療機関に問い合わせる形をおすすめしています。なお当院の診療対象は18歳以上の方です。認知症については積極的な診療は行っておりません(老年期のうつ病は診療しています)。

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執筆・監修

精神保健指定医 野口晋宏

春日メンタルクリニック院長。精神科・心療内科の診療経験をもとに、受診前の不安や制度の疑問を整理しやすい情報提供を心がけています。

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