福岡県春日市須玖北4丁目34 2階
休診日: 水曜・木曜・日曜・祝日

はじめに

相談したほうがよさそうだ、とは思っている。人にもすすめられた。それでも、予約の画面まで行って閉じてしまう。「もう少し落ち着いたら」「今月を乗り切ってから」と、踏み出す日だけが先へ先へ延びていく。

この先延ばしには、意志の強さとは別の説明があります。下敷きにしたのは、精神科の専門誌で行動経済学の考え方から受診・受療の行動を論じた解説です。以下では「解説」と呼びます。

動かないのは、めずらしいことではない

ストレスチェックで高ストレスと判定されても、医師との面接や精神科の受診まで進む方は少ない――解説はそこから始まります。面談まで進んだのは職場全体の0.5%。高ストレスの方が職場の10%を占めていたとしても、そのなかで面談を利用した割合は5%程度にとどまります。範囲を広げても事情は似ていて、うつ病などの精神障害のある方が精神科などの医療機関にかかっている割合も、およそ2割です。

そのとき返ってくるのが、仕事が立て込んで余裕がない、落ち着いたら行きます――という答えではないか。解説が挙げているのは働いている方の場面ですが、仕事をしていない方や休んでいる方にも重なるところがあります。

得より、損のほうが大きく響く

解説が持ち出すのは、行動経済学の損失回避という考え方です。得られるもののよろこびより、差し引かれるもののほうを強く感じ取りやすい――そういう人の傾きを指す言葉で、認知心理学者のカーネマン(Kahneman)とトベルスキー(Tversky)が立てたプロスペクト理論の核にあたる概念のひとつです。

得をする場面では、多くの人が確実なほうを取ります。「投げたコインが表なら2万円もらえて、裏なら何ももらえない」と「確実に1万円もらえる」を並べると、後のほうが選ばれやすい。ところが損をする場面では向きが変わり、「確実に1万円払う」と「コインが表なら2万円払い、裏なら払わなくてよい」では、賭けのほうが選ばれやすくなります。見込みの額はどちらの組み合わせも同じなのに、選び方が変わる。ここに、失うことのほうを重く感じる傾きが顔を出しています。心に映る大きさとしては、得たときよりも失ったときのほうがおよそ2.5倍になるとされています。

なお、行動経済学がこうしたずれを「非合理」と呼ぶのは、期待値の計算と合わないという学問のうえでの言い方であって、ためらっている人の判断がおかしいという意味ではありません。

何が損かは、基準しだいで変わる

そもそも、何が損で何が得かは、あらかじめ決まっていません。人は絶対の金額ではなく、自分がいま置いている基準からどれだけ増えたか・減ったかで価値を感じ取ります。プロスペクト理論はこの基準を参照点と呼びます。参照点は人によって違い、経験や状況によっても動きます。

解説は水の温度の例を引いています。片方の手を氷水に、もう片方の手を湯にしばらく浸けてから、両手を常温の水に入れると、同じひとつの水なのに、氷水にあった手にはぬるく温かく、湯にあった手にはひやりと冷たく感じられる。参照点が違えば、同じ出来事が損にも得にもなるわけです。

受診をめぐって、天秤に何が乗っているのか

不調が始まってから専門の機関にかかるまでの期間を、解説はDUIと略しています。うつ病、不安障害、双極性障害、統合失調症といったメンタルヘルスの問題では、この期間が短いことが経過のよさと関係しているとされています。

著者らが、専門の機関にかかったことのある819名を対象にたずねた調査があります。「不調の原因は自分の性格の弱さだと思っていたこと」「相談することに壁を感じていたこと」「治療を受けても良くならないだろうと見込んでいたこと」は、いずれも受診までの期間を長引かせる方向に働いていました(不調が起きてから受診まで6か月以上)。逆に、このままではまずいことになる、という受け取りは期間を短くする方向に働いていました。

そのうえで解説は、まだ受診していない高ストレスの方の参照点が「いまの仕事と暮らしをそのまま続けること」――現状維持――のところにある、と見ています。そこを基準にすると、天秤には次のようなものが乗ります。

受診する 受診しない
得られるもの 状態が回復に向かうこと いまの仕事や暮らしが、これまでどおりに保たれること
差し引かれるもの 周りに知られるかもしれないこと、時間、費用、その後の仕事への響き 働けない状態にまで悪くなること、それに伴う暮らしの不安

この四つのマスは、同じ重さでは見えていません。受診して状態が回復に向かうという得は、まだ受診していない段階では気づかれにくい。「精神科は怖い場所だ」という受け取り方(スティグマ)があると、精神科にかかっていることを周りに知られるという心の負担が損として加わり、時間・費用・その後の働き方への響きも受診の側に乗ります。一方、受診しないまま働けない状態にまで悪くなることや、それに伴う暮らしの不安は、見えにくいままです。

こうして、受診の側に乗る損は大きく映り、受診しないことで保たれるものも大きく見える。損失回避が働いて受診が先延ばしになっていく、と解説は説明しています。

なお、暴力や、相手からの強い支配のある関係のなかで、受診しようとすると止められる、行き先を確かめられる、お金を渡してもらえない――という形で受診が阻まれているときは、この天秤の話では説明されません。身の安全の確保が先になります。相談先は安全が脅かされているときにまとめてあります。そのうえで、そうした関係のなかで出てきた症状についてのご相談は、当院で承っています。

「早く行かないと」と急かされたとき

物事をどう示すかによって選び方が変わる現象を、フレーミング効果と呼びます。なかでも、おそろしさをかき立てる伝え方――恐怖訴求――について、解説は慎重です。繰り返すと危険の見積もりは上がるものの、かえって遠ざかる反応を招きかねない、と。

解説がいちばん重要な点として挙げるのは、大半の方にとっては精神科にかかることも治療を受けることも、それ自体が危険を背負う行いとして受け取られている、ということです。だからこそ、脅す形で差し引かれるものを強調しても行動は変わりにくく、場合によっては、いっそう遠ざけることになります。

「早く行かないと取り返しがつかなくなる」と言われて心が重くなったのだとしたら、受け取り方の問題ではありません。この記事も、急かす材料として書いてはいません。

天秤が動くとき

参照点は動くものだ、というのが理論の前提で、解説が挙げている道筋は二つあります。

ひとつは、不調そのものが重くなった場合です。このままではまずいことになる、という受け取りが生じると、現状維持のところにあった基準が損の側へずれていく。不調であること自体が基準になると、受診して得られるものが見えるようになり、行かないままでいることで失われるものも大きく映ってくる。それがスティグマなどの重さを上回ったところで受診に至る、という説明です。

もうひとつは、周りからの働きかけです。ご家族、ご友人、職場の同僚、産業医といった人たちが、得られるもの・失われるもののどちらかを前に出して話すことで、基準がずれることもあります。

これは、実際にそうした道筋で受診に至ることがある、という説明です。悪くなるまで待つ必要はなく、悪くなる前に相談していただくことも、もちろんできます。

工夫は、支える側と制度に向けたもの

解説は最後に、早めに相談できる方を増やすための工夫を二つ挙げています。どちらも、支援する側・制度をつくる側に向けて書かれたものです。

ひとつは、動機づけ面接法を参考にするという提案です。自分にとってプラスになること・マイナスになることを無理のない範囲で見渡し、いちばん大事にしたいものを本人自身が選び取っていく。その作業を、支える側が質問で手助けするという考え方です。

もうひとつは、ナッジ(nudge)と呼ばれる考え方です。選ぶことを禁じたり損得を大きく変えたりはせず、選ぶ場面のほうを設計します。具体例として挙げられているのは、対象者を絞らずに職場の面談を置く案です。高ストレスと判定された方にだけ声をかけると、声をかけられたこと自体が「心の弱い人」だと周囲に見られるのではないかという気がかりを生む。入職のときなどの区切りで全員に面談を用意してしまえば、その気がかりは要らなくなる、という筋です。

ただし解説は、この二つについて、受診・受療のかたよりを正せる可能性はあるものの、効果はまだ十分に確かめられておらず今後の課題だ、と留保を添えています。いずれにしても、ここに並んでいるのは支える側の関わり方と制度の設計の話であって、ためらっているご本人への宿題ではありません。

ためらいの中身は、思い過ごしとは限らない

解説はこう書き添えて稿を閉じています。これらの工夫が効くと確かめられた場合であっても、精神科の治療や検査には多くの種類があり、それら自体が背負う危険まで、目立って小さくなるわけではない。行動のかたよりを補正する働きしか持たないのだから、どなたの行動でも変えられる、というものではない――と。

つまり、ためらいの中身は、思い過ごしとは限りません。費用は実際にかかり、時間も実際に取られます。誰にどこまで知られるのかという心配にも確かめるべき中身があり、薬を使うかどうかも決めなければならないことです。それらは消して差し上げられるものではありませんが、どれも、そのまま診察でお話しいただける事柄です。天秤のどちら側に何が乗っているかを、ご自分ひとりで整理し終えてから来ていただく必要はありません。

受診の目安

次のようなことが続いているときは、行くか行かないかを決め終えるより前に、相談をお考えください。

  • 眠れない、食事が取れない、体重が落ちてきている
  • 仕事や家事、身のまわりのことができなくなってきている
  • 朝になると体が動かない、休みの日に何もできないまま終わる
  • 気持ちが晴れない日が続いている、涙が止まらない
  • お酒や市販薬の量が増えている
  • 「相談したほうがいい」と考えては打ち消す、ということを繰り返している

どこまでを不調と呼べばいいのか、ご自分でもよく分からない、というときも、そのままお越しいただけます。そして、自分や他の人を傷つけそうな考えが出ているとき、食事も水分もほとんど取れていないときは、待たないでください。通院中であれば主治医に連絡し、命に関わる切迫した状況ではためらわず救急(119)を利用してください。

当院での実際

当院は福岡県春日市の精神科・心療内科です。ご相談はWEB予約(デジスマ)でご予約のうえ、初診前のWEB問診にお答えいただく形をとっています。初診の所要時間の目安は問診を含めて30分程度で、服用中の市販薬やサプリメントについても確認しています。通院を始めた場合は2週間に一度の通院が基本で、再診の所要時間の目安は5分前後です。

どうするかを決めかねている段階のままでも、決心がついてからでなくても、そのままお話しいただいて構いませんし、何があったのかを話さないままでも受診していただけます。話したくないことを話していただく必要はなく、話さないでいることが体調に響いているようなら、そのことのほうを診察で扱えます。変わることを段階として見る枠組みも、診察のなかで取り入れて用いています(変わることの段階)。

ご家族のみの相談はお受けしていません。ご家族が心配されている当のご本人が受診され、同席に同意されている場合には、ご家族に同席していただけます。ご本人がどうしても受診できない場合は、お住まいの地域の保健所、市区町村の精神保健相談、精神保健福祉センターなどの公的相談先、または受診を予定している医療機関への問い合わせをご案内しています。当院には心理士がおらず、カウンセリングや認知行動療法などの専門的な心理療法プログラムは行っていません。実施している医療機関はご自身でお探しいただくことになりますが、紹介状(診療情報提供書)は必要に応じて作成します。当院の診療対象は18歳以上の方です。

まとめ

相談したほうがよさそうだと思いながら先延ばしになるのは、意志が弱いからではありません。目先で差し引かれるものは大きく映り、行かないまま先々に積み上がるものは見えにくい――そういう傾きが誰にでもある、というのが解説の見立てです。頭のなかで勘定した覚えがなくても、かまいません。

ためらっていることは、相談してはいけない理由になりません。天秤を自分で釣り合わせてから来ていただく必要はなく、眠れない、食べられない、朝になると体が動かない――そうした困りごとのほうを、そのままお持ちください。

ためらいの中身は、それぞれ別の記事に分けてあります ── 通院は会社に知られるか・保険・ローンの告知・費用の目安・薬を飲みたくないとき・初診で何を聞かれるか・精神科と心療内科の違い・通院をやめてしまったあと・家族の声のかけ方


参考にした資料(要約・再構成。原文の転載ではありません):

  • 精神科治療学 第37巻4号(2022年)特集「精神科臨床に役立つ心理学理論」より、行動経済学の損失回避から受診・受療行動を論じた解説(平井啓)

よくある質問

相談したほうがよさそうだと思いながら、予約の画面まで行って閉じてしまいます。どうしてでしょうか。

意志が弱いからだ、とは考えないでください。専門誌の解説は、精神科の受診が先延ばしになる背景に、行動経済学でいう損失回避という傾きが深く関わっていそうだ、という見立てを示しています。損失回避とは、得られるもののよろこびより、差し引かれるもののほうを強く感じ取りやすい、という人の傾きを指す言葉です。心に映る大きさとしては、失うほうがおよそ2.5倍になるとされています。受診には、時間、費用、周りに知られるかもしれないという心配といった、いますぐ差し引かれるものが並びます。一方で、行かないままでいることの先々の負担は、その場では見えにくい。解説はそう整理しています。頭のなかで損得を計算した覚えがない、という方がほとんどだと思いますが、それでかまいません。計算しているという話ではなく、そういう傾きがあるという話です。なお、決めるまでの過程を段階として見る考え方は、「「やる気が出ない」のではなく、準備の途中かもしれない――変わることの段階」のほうにあります。

「早く受診しないと取り返しがつかなくなる」と言われました。そのとおりなのでしょうか。

その言い方については、専門誌の解説のほうが慎重です。おそろしさをかき立てる伝え方は、恐怖訴求と呼ばれます。解説は、この形の伝え方を繰り返すと、危険の見積もりは上がるものの、かえって遠ざかる反応を招くことに注意が要る、と書いています。そして、大半の方にとっては、精神科にかかることも、そこで治療を受けることも、それ自体が危険を背負う行いとして受け取られている、という点をいちばん重要な点として挙げ、脅す形で差し引かれるものを強調しても行動は変わりにくいとしています。ですからこの記事も、急かす材料としては書いていません。急いでいただきたいのは、自分や他の人を傷つけそうな考えが出ているとき、食事も水分もほとんど取れていないときです。そのときは通院中であれば主治医に連絡し、命に関わる切迫した状況ではためらわず救急(119)を利用してください。

受診が損に見えてしまうのは、私の見方が間違っているということですか。

そうではありません。専門誌の解説は最後に、受診をうながすための工夫が効くと確かめられた場合であっても、精神科の治療や検査には多くの種類があり、それら自体が背負う危険まで、目立って小さくなるわけではない、と書き添えています。つまり、ためらいの中身が、思い過ごしではなく実際の負担であることは十分にあります。費用のこと、周りに知られること、薬のこと、時間のこと――どれも、そのまま診察でお話しいただける事柄です。なお、解説が「非合理」という言葉を使うのは、期待値の計算と合わないという学問上の意味であって、その人の判断がおかしいという意味ではありません。この記事も、ためらいをそのようには扱いません。

暴力や強い支配のある関係のなかにいます。この記事は当てはまりますか。

当てはめないでください。手が出ていない場合も同じです。逆らうと怒鳴られる、物を壊される、黙り込まれて折れるまで待たれる、「あなたが悪い」と正しさを盾に責め立てられる、過ぎたことを何度も持ち出される、病気であることを持ち出して思いどおりに動かされる、暮らしのお金を渡してもらえない、どこへ行くのかをいちいち確かめられる、怖くて向き合えない――そういう形で相手を思いどおりに動かすために力が使われている関係も含みます。受診できずにいる理由が、こうした関係のなかにあるとき、それはご自身のためらいの仕組みでは説明されません。身の安全を確保することが先になります。相談先を含めて「安全が脅かされているとき ── 関係改善の話が当てはまらない場面」にまとめてあります。そのうえで、そうした関係のなかで出てきた症状についてのご相談は、当院で承っています。ご自身の受診としてお話しください。なお、保護命令や離婚の調停といった法的な手続きのご相談は、当院ではお受けしていません。

受診するかどうか、まだ決められません。それでも相談してよいのでしょうか。

そのままご相談いただけます。どうするかを決めかねている段階、これからどうしたいかが定まっていない段階のままでも、そのままお話しいただいて構いません。決心がついてから受診する必要はありません。また、何があったのかを話さないままでも受診していただけます。話したくないことを話していただく必要はありません。当院は福岡県春日市の精神科・心療内科で、ご相談はWEB予約(デジスマ)と初診前のWEB問診という形をとっています。初診の所要時間の目安は、問診を含めて30分程度です。なお当院には心理士がおらず、カウンセリングや認知行動療法などの専門的な心理療法プログラムは行っていません。当院の診療対象は18歳以上の方です。

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執筆・監修

精神保健指定医 野口晋宏

春日メンタルクリニック院長。精神科・心療内科の診療経験をもとに、受診前の不安や制度の疑問を整理しやすい情報提供を心がけています。

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