はじめに
赤ちゃんを迎えて幸せなはずなのに、わけもなく涙が出る。ちょっとしたことで不安になり、夜もよく眠れない。「こんなに気持ちが不安定なのは、母親として失格なのでは」と、ご自身を責めてしまっていませんか。あるいは、出産から少し時間が経っても気分の重さが抜けず、「いつまでこの状態が続くのだろう」と心細く感じている方もいるかもしれません。
まず知っていただきたいのは、出産のあとに気分が大きく揺れるのは、めずらしいことではないということです。出産前後は女性ホルモンが短期間で大きく変化し、生活環境も一変します。睡眠不足、慣れない育児、仕事や家計の見通し、夫婦の役割の変化、里帰りや転居——心と体がこれほど多くの変化に一度にさらされる時期はほかにありません。気持ちが不安定になるのは、決してあなたの弱さのせいではないのです。
ただし、産後の気分の落ち込みには、「時間とともに自然におさまっていく一時的なもの」と、「治療やサポートが必要な病気」の両方があります。この記事では、その代表である「マタニティブルーズ」と「産後うつ病」の違い、見分けるときの考え方、そして受診を考える目安を整理します。産科の健診で行われるEPDSというスクリーニング、ご家族やパートナーにできることについても触れます。なお、最終的な診断は医師が行いますので、ここでは「相談の前に知っておくと役立つ目安」としてお読みください。
マタニティブルーズとは
「マタニティブルーズ」は、出産後の数日のうちに現れる、一過性で比較的軽い気分の変化を指します。とても多くの産婦さんが経験する、ごくありふれた状態です。
具体的には、わけもなく涙が出る、気分が沈む、イライラする、不安になる、集中しにくい、眠りが浅くなる、といった形で現れます。なぜ起こりやすいかといえば、出産という大きな出来事のあとにホルモンが急激に変化し、そこへ慣れない育児と睡眠不足が重なる時期だからです。
マタニティブルーズの大きな特徴は、多くの場合、特別な治療をしなくても自然にやわらいでいくことです。一般的には、出産から2週間ほどの間に少しずつ落ち着いていくとされています。ですから、産後すぐに涙もろくなったり気分が不安定になったりしても、それ自体がすぐに病気を意味するわけではありません。
大切なのは、周囲の人がこの時期のつらさを「気のせい」「甘え」と片づけず、休息や手助けを得られるよう支えることです。十分に体を休め、家族や周りのサポートを受けることが、回復を後押しします。一方で、この状態が長引いたり強まったりするときには、次に説明する産後うつ病の可能性も考える必要があります。
産後うつ病とは
「産後うつ病」は、出産後に起こるうつ病で、治療やサポートが必要な病気です。気分の落ち込みや興味・喜びの喪失が続き、育児や日常生活に支障が出てきます。
産後うつ病は、けっして珍しいものではありません。報告によって幅はありますが、産後1年のあいだに経験する方の割合は、よく引用される推定でおよそ10〜15%とされ、多くの研究をまとめた解析では13%程度と報告されています。つまり、おおよそ10人に1人前後の方が経験しうる、身近な病気だということです。「自分だけがこんなに苦しいのでは」と感じる必要はありません。
また、気分の不調は産後に限りません。妊娠中からうつ状態を経験する方も一定の割合でいることが知られています。妊娠中から気分の落ち込みや強い不安が続いている場合、それは産後の不調のサインでもあるため、出産前の段階から相談していただいてかまいません。
発症の時期にも幅があります。産後の比較的早い時期に始まることが多い一方で、産後1年のあいだのどこかで起こりうるものです。多くは1年以内に回復していきますが、ときに長引くこともあるため、「時間が経てば必ず自然に治る」と思い込んで我慢を続けるのは避けたいところです。
症状としては、一日の大半を気分が沈んだ状態で過ごす、これまで楽しめていたことに興味がわかない、強い不安や焦りがある、眠れない・食欲がない、自分を責める気持ちが強い、赤ちゃんやご自身のことが手につかない、といったものがあります。「赤ちゃんをかわいいと思えない」と感じてしまい、そんな自分をさらに責めてしまう方もいます。けれども、それは産後うつ病の症状のひとつであって、母親としての愛情がないということではありません。
産後うつ病の背景には、ホルモンの変化だけでなく、睡眠不足、頼れる人が近くにいない孤立、経済的な不安、夫婦関係の変化、過去に自分が育てられた体験など、生活全体の事情が重なっていることが少なくありません。専門書でも、周産期の心の不調は症状だけでなく生活の背景と合わせてみていく必要があるとされています。だからこそ、「気の持ちよう」で乗り切ろうとするのではなく、生活の負担ごと相談することに意味があります。
マタニティブルーズと産後うつ病の見分け方
このふたつは症状が一部重なるため、ご自身では区別しにくいことがあります。見分けるときの手がかりになるのは、おもに「現れる時期と続く期間」「症状の重さ」「日常生活への支障」の3つです。
ひとつめは、現れる時期と続く期間です。マタニティブルーズは産後数日のうちに現れ、おおむね2週間ほどでやわらいでいくことが多いとされています。これに対して産後うつ病は、産後の早い時期に始まることもあれば、数カ月経ってから始まることもあり、産後1年のあいだのどこかで起こりえます。気分の落ち込みや不安、涙もろさが2週間を過ぎても続く、あるいは時間とともに強まっていく場合は、産後うつ病の可能性を考えます。
ふたつめは、症状の重さです。マタニティブルーズが比較的軽い気分の波であることが多いのに対し、産後うつ病では落ち込みが深く、「何をしても楽しくない」「消えてしまいたい」といった強い気持ちが現れることもあります。
みっつめは、日常生活への支障です。マタニティブルーズでは、つらさがありながらも、育児や身の回りのことは何とかこなせることが多いものです。一方で、家事や育児に手がつかない、眠れず食べられない状態が続く、赤ちゃんの世話が大きな負担になっている、といったときは、産後うつ病として相談が必要なサインといえます。
ただし、これらはあくまで考え方の目安です。妊娠・出産・育児にともなう不安やゆらぎは、自然な心の反応から治療が必要な状態まで連続しており、はっきりした線が引けるものではありません。「まだ2週間経っていないから大丈夫」と無理に当てはめる必要はありません。つらさが強いとき、不安なときは、期間にかかわらず相談してかまいません。区別を含めた診断は、症状や経過、生活への影響などを総合して医師が行います。
ごくまれですが緊急性の高い状態——産後精神病
頻度は低いものの、知っておいていただきたい状態として「産後精神病(産褥精神病)」があります。産後の比較的早い時期に、強い混乱、興奮、現実にはないことを確信してしまう、極端に眠れないのに動き回ってしまう、言動のまとまりがなくなる、といった症状が急に現れるものです。
これはマタニティブルーズや産後うつ病とは異なり、できるだけ早く精神科の診察と治療が必要な状態です。専門書でも、精神病症状をともなう場合はまず速やかな専門的評価と治療を優先すべきとされています。本人は自分の変化に気づきにくいことが多いため、ご家族が「様子がいつもと明らかに違う」「話が通じない」と感じたら、様子を見ずに、かかりつけの産科・精神科や救急に相談してください。早く治療につながれば回復が期待できる状態です。
産科健診でのEPDSによるスクリーニング
近年は、産後うつ病に早く気づけるよう、産科の健診の場で気持ちの状態を確認する取り組みが広がっています。多くの地域では、産後2週間と1カ月ごろの健診時に、「EPDS(エジンバラ産後うつ病質問票)」などを用いたスクリーニングが行われています。
EPDSは、ここ数日の気持ちの状態について、いくつかの質問に答えていく形式の質問票です。助産師や保健師、看護職などが、その回答をていねいに聞き取りながら、サポートが必要な方に気づくための手がかりとして使います。
ここで誤解しないでいただきたいのは、点数が高いことが、ただちに「産後うつ病である」という診断を意味するわけではないということです。逆に、点数が低くても、つらさがあれば相談してよいのです。専門書でも、質問票は点数の判定そのものより、回答をきっかけに背景の事情を聴き取り、必要なフォローにつなげる「コミュニケーションの道具」として使うべきだとされています。点数に一喜一憂するよりも、「気になることを話すきっかけ」として活用していただくとよいでしょう。
健診でこうした質問票に答えるとき、「よく見られたい」という気持ちから、つい実際より元気に答えてしまう方もいます。けれども、正直な気持ちを伝えることは決して恥ずかしいことではなく、早めにサポートにつながるための大切な一歩です。気になることがあれば、健診の場でも遠慮なく相談してみてください。
家族・パートナーができること
産後うつ病からの回復には、まわりの支えが大きな力になります。ご家族やパートナーができることを、いくつか挙げます。
まず、話を否定せずに聴くことです。「考えすぎだよ」「みんな通る道だから」と励ますつもりの言葉が、本人には「わかってもらえない」と響くことがあります。周産期支援の現場でも、母親の話を否定せず、そのまま受け止めて聴くことが最も大切にされています。「そんなにつらかったんだね」と、まず気持ちを受け取ってください。
「大丈夫」という言葉をそのまま受け取りすぎないことも大切です。産後のお母さんが「大丈夫です」と答える背景には、自分の困りごとに気づけていない、何をどう頼めばよいかわからない、弱い母親だと思われたくない、といった事情が隠れていることがあります。言葉だけでなく、眠れているか、食べられているか、表情や口数はどうか、といった様子の変化にも目を向けてください。
休息を「具体的に」つくることです。「手伝うから言ってね」ではなく、赤ちゃんを見ている時間を決めて母親がまとまって眠れるようにする、家事を具体的に引き受ける、頼れる人や産後ケアなどのサービスを一緒に探す、といった形にすると休息につながりやすくなります。産後うつ病の回復には、治療とともに、家事・育児の負担を実際に減らすことが重要とされています。
そして、パートナー自身の心の健康にも気を配ってください。あまり知られていませんが、産後うつは母親だけのものではなく、父親にも産後の抑うつが起こりうることが報告されています。母親に産後うつがあるとき、父親も疲弊していることは少なくありません。家族全体で無理をため込まず、支えを外に求めることが、結果として赤ちゃんのためにもなります。
なお、当院ではご本人の診察を前提としており、ご家族のみの相談はお受けしていません。ご本人の同意のうえでの診察への同席は可能です。ご本人がどうしても受診できない場合は、地域の保健センターなどの公的な相談先や、受診を予定している医療機関に問い合わせる形をご検討ください。
治療とサポート——授乳中の薬についても
産後うつ病は、適切な治療とサポートによって回復が期待できる病気です。治療の基本は、まず休息を確保できる態勢をつくること、そして症状や状況に応じて精神療法や薬物療法を検討することです。産後うつ病に対しては、考え方や行動のパターンを整理していく認知行動療法や、出産にともなう役割の変化・対人関係に焦点を当てる対人関係療法といった心理的アプローチの研究も重ねられています。どの方法が合うかは、症状の重さやご本人の希望、利用できる資源によって変わるため、主治医と相談しながら決めていきます。
薬については、「授乳中だから薬は使えないのでは」と心配される方が多くいらっしゃいます。当院では、妊娠希望・授乳中の方には催奇性を考慮したうえで治療を検討しています。過去の病歴などをもとに、有益性が上回ると判断する場合には、最小限の薬物療法を検討することもあります。授乳を続けたいというお気持ちも大切な要素ですので、遠慮なく診察でお伝えください。
一方で注意していただきたいのは、すでに治療中の方が、妊娠や授乳を理由に自己判断で薬を中止しないことです。急な中断は再発のリスクを高めることが知られています。妊娠がわかったとき、妊娠を考え始めたときは、やめる前にまず主治医にご相談ください。
また、医療機関だけがサポートの場ではありません。地域には、産後ケア事業や保健センター、助産師による訪問など、母親の休息と育児を支えるしくみがあります。こうした場は、育児の技術的な相談だけでなく、がんばりを認めてもらい、ふだん言えない不安を言葉にできる場所でもあります。利用できるサービスは地域によって異なるため、お住まいの自治体の窓口や産科で確認してみてください。
受診の目安
以下に当てはまるときは、早めの相談をおすすめします。
- 気分の落ち込みや不安、涙もろさが、産後2週間を過ぎても続いている、または強まっている
- 眠れない・食べられない状態が続いている
- 何をしても楽しめず、育児や家事に手がつかない
- 赤ちゃんの世話が大きな負担に感じられ、関わるのがつらい
- 自分を強く責めてしまう、自分には価値がないと感じる
- 妊娠中から気分の落ち込みや強い不安が続いている
- 産科の健診で「気持ちのことを相談したほうがよい」と勧められた
特に、消えてしまいたい・自分や赤ちゃんを傷つけたいといった気持ちがあるときは、期間を問わず、できるだけ早く主治医や当院にご相談ください。命に関わる緊急の危険があるときは、ためらわず救急(119)に連絡してください。
まとめ
産後の気分の落ち込みには、産後数日で現れて自然にやわらいでいく一過性の「マタニティブルーズ」と、治療やサポートが必要な「産後うつ病」があります。産後うつ病はおよそ10人に1人前後が経験しうる身近な病気で、産後1年のあいだに起こりえます。ごくまれに、緊急の治療が必要な産後精神病が起こることもあり、明らかに様子がおかしいときは早急な受診が必要です。
見分けるときは、「現れる時期と続く期間」「症状の重さ」「日常生活への支障」が手がかりになりますが、無理にご自身で判断する必要はありません。多くの地域では、産後2週間と1カ月の健診でEPDSによるスクリーニングが行われており、気持ちのつらさに早く気づくための入口になっています。ご家族やパートナーには、話を否定せずに聴くこと、具体的な休息をつくること、そしてご自身の心の健康にも気を配ることをお願いしたいと思います。
「ただの疲れ」と我慢を続けるより、早めに相談したほうが、ご自身が楽になり、赤ちゃんとの時間を大切にすることにもつながります。産後のつらさは、あなた一人で抱えるものではありません。気になるサインがあれば、まずは身近なところに「つらい」と伝えるところから始めてみてください。
参考にした書籍(要約・再構成。原文の転載ではありません):
- 周産期メンタルヘルスにおける心理社会的支援(星和書店「精神科治療学」)
よくある質問
マタニティブルーズと産後うつ病はどう違いますか?
マタニティブルーズは産後数日のうちに現れ、多くの方が経験する一過性の状態で、ふつう自然に軽くなっていきます。一方、産後うつ病は治療が必要な病気で、産後1年のあいだに起こりうるものです。続く期間や症状の重さ、日常生活への支障の大きさが見分ける手がかりになりますが、最終的な診断は医師が行います。
産後の落ち込みは、どのくらい続いたら受診を考えればよいですか?
マタニティブルーズは2週間ほどでやわらいでいくことが多いとされています。気分の落ち込みや涙もろさ、不安などが2週間を過ぎても続く、あるいは強まっていくときは、受診を考える目安です。育児や家事、睡眠などに支障が出ているときは、期間にかかわらず早めにご相談ください。
産科の健診で受けるEPDSとは何ですか?
EPDS(エジンバラ産後うつ病質問票)は、産後の気持ちの状態を確認するための質問票です。多くの地域で、産後2週間と1カ月ごろの健診時に用いられています。点数だけで病気が決まるわけではなく、支援が必要な方に気づき、必要に応じて相談や受診につなげるための入口の役割を持っています。
「赤ちゃんをかわいいと思えない」のは母親として失格でしょうか?
いいえ、そうではありません。赤ちゃんへの気持ちがわきにくくなることは、産後うつ病の症状のひとつとして現れることがあります。それは愛情がないということではなく、心が疲れているサインです。自分を責める必要はありません。気になるときは、その気持ちも含めて相談してみてください。
授乳中でも薬を使った治療はできますか?
当院では、妊娠希望・授乳中の方には催奇性を考慮したうえで治療を検討しています。過去の病歴などをもとに、有益性が上回ると判断する場合には最小限の薬物療法を検討することもあります。授乳を続けたいというお気持ちも含めて、診察でご相談ください。すでに薬を飲んでいる方が自己判断で中止することは、再発のリスクがあるためおすすめできません。