はじめに
連載「アルコールとの付き合い方」の第3回です。第1回ではアルコール依存症とはどんな病気かを、第2回では自助グループという回復の場を紹介しました。
最終回のテーマは「ハームリダクション」という考え方です。聞き慣れない言葉かもしれませんが、依存症の支援を考えるうえで、世界的に大きな議論を呼んできた発想です。
「お酒を完全にやめられないなら、治療を受ける資格がない」――そう思って受診をためらっている方にこそ、知っていただきたい内容です。先にお断りしておくと、この記事は飲酒や薬物の使用をすすめたり、容認したりするものではありません。「支援の入口をどこに置くか」という考え方の紹介です。
ハームリダクションとは何か
ハームリダクション(harm reduction)は、直訳すると「害の低減」です。国際的には、「使用量そのものは必ずしも減らなくても、使用によって生じる健康・社会・経済上の悪影響を減らすことを主な目的とする政策・プログラム・実践」と定義されています。
ポイントは、「使うか、やめるか」ではなく「害が増えるか、減るか」に注目するところです。
依存症のある人が受ける「害」には、体の病気や事故といった健康面の害だけでなく、人間関係の破綻や失職といった社会的な害、経済的な負担も含まれます。ハームリダクションは、本人が今すぐ使用をやめられなくても、こうした害を一つでも減らすことをまず目指します。
もともとは1980年代、注射による薬物使用でHIVなどの感染症が広がったことをきっかけに、欧州などで公衆衛生上の対策として発展しました。「使用をやめさせること」を待っていては感染が広がり命が失われる――そこで、やめることを条件にせず、まず命と健康を守る関わりが選ばれたのです。
なぜ「やめること」を入口条件にしないのか
「やめる気がないなら支援しない」という姿勢には、一見筋が通っているように見えて、大きな落とし穴があります。断酒や断薬を支援の入口条件にすると、いちばん困っている人ほど、支援から遠ざかってしまうのです。
依存症のある人の多くは、「やめたい」と「やめられない」のあいだで揺れています。「やめると約束できなければ相談できない」となれば、正直に話すことができず、相談そのものを避けるようになります。その結果、孤立が深まり、症状も生活の問題も悪化していきます。
ハームリダクションの発想では、順番を逆にします。まず、条件をつけずにつながる。つながりの中で害を減らす工夫を一緒に考える。そして本人が変わりたいと思ったときに、すぐ次の治療に進める関係を保っておく――「つながり続けることを最優先する支援」と言い換えることもできます。
支援の現場では、「やめるか、やめないか」ではなく「これ以上、悪いことが増えないようにするには何ができるか」という問いを本人と共有することが、信頼関係(治療同盟)を築く土台になるとされています。
「依存症は孤立の病」という理解
ハームリダクションの背景には、依存症のとらえ方そのものの変化があります。
かつて依存症は、快感を求めて自ら深みにはまっていく状態と考えられがちでした。しかし現在では、多くの当事者にとって物質の使用は「快感を得るため」というより「つらさをしのぐため」の手段になっている、という理解(自己治療仮説と呼ばれます)が広がっています。不安や不眠、生きづらさを抱えた人が、たまたま出会った物質で一時的に楽になる経験をし、それに頼らざるを得なくなっていく――という順序です。
この見方に立つと、責めて追い詰めるほど本人は孤立し、ますます物質に頼るしかなくなる、という悪循環が見えてきます。『ハームリダクションとは何か』という書籍では、依存症とは「安心して人に依存できない病」であるという表現が紹介されています。物質への依存を断ち切ることだけを目指すのではなく、人や場所など、頼れる先を増やしていくことが回復を支える、という考え方です。
これは、第2回で紹介した自助グループが大切にしてきた「仲間とのつながりの中で回復する」という知恵とも重なります。
賛否両論があることも知っておく
ハームリダクションは、国際的に評価が定まりきった考え方ではありません。賛否両論があります。
批判的な立場からは、「使用を事実上黙認することにならないか」「やめられるはずの人が、やめる機会を逃さないか」「社会のルールとの整合性はどうなるのか」といった懸念が示されてきました。日本では特に、違法薬物に対して厳格な姿勢をとる社会的合意が強く、海外で行われているような公的プログラムはほとんど導入されていません。
一方、支持する立場からは、支援とのつながりを保った地域で感染症や死亡といった深刻な被害が減ったという海外の報告が複数示されており、「厳しく罰して排除するだけでは、本人の害も社会の害も減らなかった」という反省が語られています。
どちらの立場にも理由があり、これは今も世界中で議論が続いているテーマです。この記事でお伝えしたいのは、どちらが正しいかの結論ではなく、「支援から切り離さないことを重視する考え方が、依存症支援の選択肢として国際的に真剣に検討されてきた」という事実です。
アルコール診療とのつながり――この連載のまとめとして
ハームリダクションは元来、薬物政策の文脈で語られることの多い言葉ですが、その根本にある発想は、アルコールの診療にも通じています。
たとえば、アルコール依存症の治療目標は断酒が原則とされつつも、状況によっては「まず飲酒量を減らすこと」から始める選択肢があります。これは「治療につながらないまま悪化するより、実現可能な目標から始めて治療関係を保つほうがよい」という、ハームリダクションと同じ方向の発想です。減酒という治療選択肢の具体的な内容は、別の記事で詳しく解説しています。
また、つらさをしのぐための使用が問題になるのはお酒だけではありません。市販薬の過量摂取(オーバードーズ)も、背景に同じ構造があると考えられています。「やめられないこと」を責めるのではなく、その奥にあるつらさに目を向けることが、どの依存の問題でも回復の入口になります。
連載を通してお伝えしてきたことを一言でまとめるなら、こうなります。「やめられない」は意志の弱さではなく、治療と支援の対象である。そして、完璧にやめられる自信がなくても、相談を始めることはできる――ということです。
当院での実際
当院は精神科・心療内科のクリニックで、診療対象は18歳以上です。当院ではアルコール依存症そのものの専門治療は行っておらず、依存症を主なお困りごととするご相談はお受けしていません。実施している医療機関はご自身でお探しいただくことになりますが、紹介状(診療情報提供書)は必要に応じて作成します。この記事で紹介したハームリダクションの考え方に沿った支援も、専門外来や地域の相談機関が担っています。
なお、ご家族のみの相談はお受けしていません。ご本人が受診に同意されたうえでの同席は可能です。ご本人がまだ受診できない場合は、お住まいの地域の公的相談先や、受診を予定している医療機関への問い合わせをご検討ください。
急な変化――呼びかけへの反応が鈍い、けいれん、意識がもうろうとするなど――があるときは、ためらわず救急(119番)へ。通院中の方は、日頃の心配ごとを主治医にご相談ください。
まとめ
- ハームリダクションは、使用の是非よりも「害を減らすこと」を優先する支援の考え方で、使用を推奨・容認するものではありません
- 断酒・断薬を支援の入口条件にすると、いちばん助けが必要な人が支援から離れてしまう――だから「つながり続けること」を最優先します
- 背景には、依存症を「快感の追求」ではなく「つらさへの対処」としてとらえる理解の変化があります
- 国際的には賛否両論があり、今も議論が続いているテーマです
- 完璧にやめられる自信がなくても、相談を始めることはできます。迷っている段階からのご相談をお待ちしています
参考にした書籍(要約・再構成。原文の転載ではありません):
- ハームリダクションとは何か(松本俊彦・古藤吾郎・上岡陽江 編著、中外医学社)
よくある質問
ハームリダクションとは、お酒や薬物の使用を認めるということですか。
いいえ。使用を推奨したり容認したりする考え方ではありません。「やめること」を支援の入口条件にすると、いちばん助けが必要な人が支援から離れてしまう――だからまず、健康や生活への害を減らすことを優先し、支援とのつながりを保とうとする発想です。最終的にやめることを妨げるものでもありません。
ハームリダクションには批判もあるのですか。
あります。「使用を黙認することにならないか」「かえって使用を助長しないか」という懸念は根強く、国や地域によって導入状況も大きく異なります。一方で、支援とのつながりを保つことで健康被害が減ったという海外の報告もあり、現在も国際的に議論が続いているテーマです。
日本の依存症治療でも、この考え方は使われていますか。
日本では海外のような公的プログラムはほとんど導入されていませんが、「断酒・断薬を治療開始の条件にせず、まず相談を続けてもらう」という関わり方は、依存症診療の現場に少しずつ広がっています。アルコール依存症で治療目標として減酒が選ばれることがあるのも、その流れの一つです。
家族が本人の代わりに相談することはできますか。
当院ではご家族のみの相談はお受けしていません。ご本人が受診に同意されたうえでの同席は可能です。ご本人がまだ受診できない場合は、お住まいの地域の公的相談先や、受診を予定している医療機関への問い合わせをご検討ください。
飲酒後に意識がもうろうとするなど、様子がおかしいときはどうすればよいですか。
呼びかけに反応しない、けいれんしている、呼吸がおかしいなど急を要する様子があれば、ためらわず救急(119番)に連絡してください。通院中の方は、落ち着いてから主治医に状況を伝えて相談してください。