はじめに
「PTSDと言われたけれど、薬で治るのだろうか」「カウンセリングと薬、どちらを受ければいいのだろう」——トラウマ(こころの傷となる体験)のあとの症状に悩む方から、よくいただく質問です。
つらい記憶が突然よみがえる、眠れない、いつも気が張っている。そうした症状が続くと、少しでも早く楽になりたいと思うのは当然のことです。一方で、「薬に頼っていいのか」「心の傷は薬では治らないのでは」と迷う方も少なくありません。
この記事では、PTSD(心的外傷後ストレス障害)の治療における薬物療法と、トラウマに焦点を当てた心理療法について、それぞれの特徴と使い分けの考え方を、日本トラウマティック・ストレス学会のガイドラインと英国NICE(国立医療技術評価機構)のガイドラインをもとにお伝えします。なお、診断や治療方針の判断は医師が行います。ここでの内容は、相談の前に知っておくと役立つ目安とお考えください。
まず知っておきたいこと——時間と自然回復
前提として押さえておきたいのは、つらい出来事のあとに再体験や回避、過覚醒といった反応が出ること自体は、誰にでも起こりうるということです。そして多くの場合、1か月以内に自然に回復していくとされています。
そのため、被害や事故の直後は、安心できる環境と周囲の支えを整えながら回復を見守ることが基本になります。英国のガイドラインでも、PTSDを「予防」する目的で薬(ベンゾジアゼピン系を含む)を使うことは推奨されていません。一方、数か月たっても症状が続く場合や、苦痛が強く改善が見られない場合には、治療の対象として考えていくことになります。
薬物療法——SSRIが中心、ただし即効薬ではない
薬が助けになりやすい場面
「心の傷が薬で治るのか」という疑問はもっともです。薬はトラウマ記憶そのものを消すわけではありません。それでも、薬が回復の助けになりやすい場面がいくつかあります。
- 眠れないとき:悪夢や中途覚醒で睡眠が削られると、日中の症状もつらくなりやすくなります。睡眠が安定するだけで、生活の立て直しがぐっと楽になることがあります。
- 過覚醒が強いとき:いつも警戒して気が張っている、ささいな物音にびくっとする、イライラが抑えられない——こうした「神経の張りつめ」がやわらぐと、休息がとれるようになります。
- うつ症状を併発しているとき:PTSDの方の約半数はうつ症状を併発するとされています。気力が出ない、何も楽しめないという状態が重なっているときは、抗うつ薬による治療が併せて検討されます。
つまり薬の役割は、症状の土台となる部分を整え、生活と回復の余力をつくることにあります。精神科の薬物療法の解説書でも、薬はそれ単独で完結するものではなく、休息・環境調整・精神療法と組み合わせる総合的な治療の一部として位置づけられています。
どんな薬が使われるのか
PTSDの薬物療法で国内外のガイドラインが第一選択としているのは、SSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)と呼ばれる抗うつ薬です。中でもパロキセチンとセルトラリンは、ランダム化比較試験(くじ引きのように割り付けて効果を確かめる質の高い研究)で効果が確認されています。現在の日本では、この2剤がPTSDへの適応を取得しています。英国のガイドラインでは、SNRIという種類のベンラファキシンも選択肢に挙げられていますが、日本ではPTSDへの適応はありません。
効果が出るまでの時間
大切なのは、SSRIは即効性のある薬ではないという点です。効果が見え始めるまで早くても1〜2週間かかり、ある程度の反応が期待できるのは4〜6週間後で、さらに数か月続けるなかで症状がやわらいでいくことが多いとされています。効果の現れ方には個人差があります。飲み始めてすぐに変化がなくても、それは「効かない」ということではありません。少量から始めて様子を見ながら調整し、よくなったあとも約1年間続けることで再発を防ぐ効果が報告されています。
減らすときにも注意が必要です。急な減量や中止は、めまいや知覚の異常、不眠などの離脱症状を起こすことがあるため、必ず医師と相談しながら進めます。離脱症状は症状のぶり返しと区別がつきにくいこともあり、自己判断でのやめ方はおすすめできません。
薬の限界も知っておく
一方で、薬にできないこともあります。SSRIはトラウマ記憶そのものに働きかける治療ではないため、「記憶を思い出すとつらい」という中核の部分は、薬だけでは残ることがあります。また、効果の感じ方には個人差があり、十分な期間続けても手ごたえが乏しい場合には、薬の変更や心理療法の検討など、次の一手を医師と相談していくことになります。「薬が効かない=治らない」ではありません。
抗不安薬(安定剤)には注意が必要
「不安が強いから安定剤がほしい」と思う方は多いのですが、ベンゾジアゼピン系の抗不安薬は、その場の不安をやわらげる作用はあってもPTSDの中核症状には効果がなく、依存を生じやすいことから、国内外の多くのガイドラインで推奨されていません。やむを得ず使う場合も、必要最小限にとどめることが求められています。
トラウマ焦点化心理療法——記憶に働きかける治療
どんな治療なのか
もうひとつの柱が、トラウマに焦点を当てた心理療法です。英国のガイドラインでは、トラウマ焦点化認知行動療法(トラウマ記憶に安全な形で向き合い、考え方や回避のパターンに働きかける治療)が治療の中心に位置づけられており、通常8〜12回のセッションで行われます。複数のトラウマを経験している場合は、回数を増やすことも検討されます。
代表的な種類——いずれも専門家と行う治療
トラウマ焦点化心理療法には、いくつかの代表的な方法があります。ここでは一般的な医療情報として、名前と考え方だけ簡単に紹介します。
- 持続エクスポージャー療法(PE):安全な治療環境のなかで、避けてきた記憶や場面に段階的に向き合い、「思い出しても大丈夫」という経験を積み重ねていく治療です。
- 認知処理療法(CPT):トラウマのあとに生まれやすい「自分が悪かった」「世界は危険だ」といった考え方のかたよりに働きかける治療です。
- EMDR(眼球運動による脱感作と再処理法):目を左右に動かすなどの刺激を使いながらトラウマ記憶を処理していく治療で、英国のガイドラインではトラウマから3か月以上たった方への選択肢として挙げられています。
大切な注意がひとつあります。これらはいずれも、訓練を受けた専門家の管理のもとで、十分な準備と手順を踏んで行う治療だということです。トラウマ記憶に向き合うことは治療の目的ではなく手段であり、準備なしに一人で記憶を掘り起こそうとすることは、かえって症状を強めるおそれがあります。この記事を読んで「自分でやってみよう」とはせず、必ず専門家に相談してください。
日本のガイドラインでも、トラウマに特化した認知行動療法のエビデンス(効果の科学的な裏づけ)は豊富だとされています。ただし、これらの専門的な心理療法を提供できる施設は、日本では専門機関であってもまだ少ないのが実情です。お住まいの地域でどんな選択肢があるかは、診察のときにご相談ください。
どう使い分けるのか
では、薬と心理療法はどう選べばよいのでしょうか。
英国のガイドラインでは、トラウマ焦点化心理療法を治療の軸としつつ、薬物療法は「ご本人が薬による治療を希望する場合」に検討する、という位置づけになっています。つまり、どちらか一方が絶対的に正しいのではなく、ご本人の希望が大切な判断材料のひとつなのです。
実際の診療では、次のような点を総合して方針を考えていきます。
- 症状の内容と強さ:不眠や過覚醒が強く生活が回らないときは、まず薬で土台を整えることが役立つ場合があります。
- 併存する症状:PTSDの方の約半数はうつ症状を併発するとされており、その場合はSSRIなどによる治療が併せて検討されます。
- 心理療法への準備:トラウマ記憶に向き合う治療には、ある程度の心身の余力が必要です。時期や順番も含めて検討します。
- ご本人の希望と環境:通える範囲に専門的な心理療法があるか、薬への考え方はどうか、といった現実的な条件も大切です。
薬か心理療法かの二者択一ではなく、両方を組み合わせることもあります。たとえば、まず薬で睡眠と過覚醒を落ち着けて生活の土台を整え、余力が出てきた段階でトラウマ焦点化心理療法を検討する、という順番もありえます。精神療法の解説書でも、「薬だけ」「精神療法だけ」の二者択一にしないことが繰り返し強調されています。
いずれにしても、支持的な関わり——治療者が話をよく聴き、理解し、支えること——はすべての治療の土台になります。診断名や治療法の選択の前に、まず安心して話せる関係があること。それ自体が回復を支える力になります。
回復の見通し——時間がかかってよい
「早く忘れて前に進まなければ」と自分を急かしてしまう方は少なくありません。しかし、PTSDからの回復は、階段を一段ずつのぼるような、時間のかかる過程であって構いません。
薬物療法は効果の実感まで数週間、心理療法も数か月単位のセッションを重ねていく治療です。回復は一直線ではなく、良くなったり少し戻ったりを繰り返しながら進むのが普通です。調子が揺れた日があっても、それは「振り出しに戻った」ということではありません。
また、回復とは「出来事がなかったことになる」ことではありません。記憶は残っても、それに振り回されずに眠れて、働けて、人と過ごせるようになること——生活を取り戻すことが治療の目標です。焦らなくて大丈夫です。そのペースを一緒に考えるのが、医師の役割です。
当院での診かた
当院では、PTSDに対する専門的な心理療法プログラム(持続エクスポージャー療法やEMDRなど)は提供していません。心理士が在籍しておらず、心理士によるカウンセリングも行っていません。本格的なトラウマ焦点化心理療法を希望される場合は、ご自身で実施している医療機関をお探しいただくことになりますが、紹介状(診療情報提供書)は必要に応じて作成します。
一方、診察のなかでは、症状の整理、薬物療法、生活の立て直しの相談など、回復を支える診療を行っています。「まず何から始めればよいか分からない」という段階のご相談も可能です。
受診の目安
以下に当てはまるときは、早めの相談をおすすめします。
- つらい出来事から1か月以上たっても、フラッシュバックや悪夢、回避、過覚醒などの症状が続いている
- 数か月たっても苦痛が強く、仕事や家庭生活に支障が出ている
- 不眠やイライラを紛らわせるために、飲酒量が増えている
- すでに治療中だが、薬の効果や副作用について不安がある
特に、消えてしまいたい・自分を傷つけたいといった気持ちがあるときは、期間を問わずできるだけ早く相談してください。緊急の場合は救急(119)や主治医に連絡してください。
まとめ
PTSDの治療には、SSRIを中心とする薬物療法と、トラウマ焦点化認知行動療法やEMDRといった心理療法という、大きく2つの柱があります。薬は即効性こそないものの、続けることで症状の軽減と再発予防が期待でき、心理療法はトラウマ記憶そのものに働きかける治療として効果の裏づけがあります。
どちらを選ぶか、どう組み合わせるかは、症状や生活の状況、そしてご本人の希望をふまえて、医師と一緒に決めていくものです。「薬に頼るのは弱いから」でも「心理療法でなければ本物ではない」でもありません。二者択一ではなく、あなたに合った道筋を、時間をかけてよいという前提で、一緒に探していきましょう。
参考にした資料(要約・再構成であり、原文の転載ではありません):
- PTSDの薬物療法ガイドライン:プライマリケア医のために(日本トラウマティック・ストレス学会、2013)
- NICE guideline NG116: Post-traumatic stress disorder(英国国立医療技術評価機構、2018)
執筆・監修:精神保健指定医 野口晋宏
よくある質問
PTSDの薬は、飲めばすぐに効きますか?
PTSDに使われるSSRIという抗うつ薬は、即効性のある薬ではありません。効果が見え始めるまで早くても1〜2週間、ある程度の手ごたえを感じられるのは4〜6週間後が目安とされています。焦らずに続けることが大切で、量の調整や継続の判断は医師と相談しながら進めます。
薬と心理療法は、どちらを選べばよいですか?
どちらが優れているというより、症状の内容、生活の状況、ご本人の希望などを総合して決めていくものです。海外のガイドラインではトラウマに焦点を当てた心理療法が中心に位置づけられ、薬物療法はご本人が薬を希望する場合などに検討するとされています。実際の方針は診察のうえで医師が一緒に考えます。
不安が強いので、抗不安薬(安定剤)をもらえますか?
ベンゾジアゼピン系と呼ばれる抗不安薬は、その場の不安をやわらげる作用はあるものの、PTSDの中核症状には効果がなく、依存を生じやすいため、国内外のガイドラインで長期の使用は推奨されていません。使う場合でも必要最小限にとどめることが求められており、医師と相談のうえで慎重に判断します。
薬を自分の判断でやめてもよいですか?
急にやめたり減らしたりすると、めまいや知覚の異常、不眠などの離脱症状が出ることがあります。また、よくなったあとも一定期間続けることで再発を防ぐ効果が報告されています。減らす時期や方法は、自己判断ではなく必ず医師と相談して決めてください。