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はじめに

「子どもの頃の家庭のことを思い出すと、いまでも胸がざわつく」「大人になったのに、生きづらさの根っこがあの頃にある気がする」――。そんな感覚を抱えながら、誰にも話せずにきた方は少なくありません。

インターネットで「毒親」「幼少期 トラウマ」といった言葉を検索して、この記事にたどり着いた方もいるかもしれません。子ども時代のつらい経験と大人になってからの心の不調との関係は、近年、精神医学の分野で「逆境的小児期体験(ACE:Adverse Childhood Experiences)」という言葉で研究が重ねられてきました。

この記事では、ACEとはどういう考え方なのか、子ども時代の経験が大人の心にどう影響しうるのか、そして――これがいちばん大切なことですが――過去の体験がすべてを決めるわけではなく、回復は可能であるということを、順を追ってお伝えします。

逆境的小児期体験(ACE)とは

逆境的小児期体験(ACE)とは、子ども時代に経験した、心身の発達にとって大きな負担となりうる体験の総称です。たとえば次のようなものが含まれます。

  • 身体的・心理的な虐待や、性的な被害
  • 必要な世話をしてもらえなかった経験(ネグレクト)
  • 家庭内の暴力を目撃したこと
  • 家族の深刻な心の病気や依存の問題
  • 両親の激しい不和や、家庭の中に安心できる居場所がなかったこと

この考え方が広く知られるようになったきっかけは、1990年代にアメリカでフェリッティ(Felitti)らが行った大規模な調査研究です。この研究をはじめとする多くの調査で、子ども時代の逆境体験は、大人になってからの心の健康だけでなく、体の健康や社会生活とも関連しうることが報告されてきました。

大切なのは、ACEが「殴られた」「ひどい言葉を浴びせられた」といったわかりやすい虐待に限らないことです。日本の精神科領域では、大人の側に加害の意図があったかどうかではなく、「子どもにとって有害だったかどうか」という観点から、不適切な養育全般を「マルトリートメント」と呼んで捉える考え方も紹介されています。「あんなのは大したことじゃなかった」と自分に言い聞かせてきた経験が、実は長く心に影響していた、ということは珍しくありません。

子ども時代の経験は、大人の心にどう影響しうるのか

では、子ども時代の逆境体験は、どのような形で大人の心に影を落としうるのでしょうか。専門書では、おおよそ次のような道筋が説明されています。

「安心の土台」が育ちにくくなる

子どもは本来、養育者との安定した関係――専門的には「アタッチメント(愛着)」と呼ばれます――を土台にして、「自分は大切にされる存在だ」「困ったときは人に頼っていい」という感覚を育てていきます。

ところが、守ってくれるはずの大人が同時に恐怖の対象でもあった場合、この土台が育ちにくくなります。その結果、大人になってからも次のような形で影響が続くことがあります。

  • 自分に対する否定的な感覚(「自分には価値がない」「自分が悪い」)
  • 人への根深い不信感、あるいは逆に人に依存しすぎてしまう関係のパターン
  • 感情の波を自分でなだめることの難しさ
  • 衝動的な行動や、対人関係のくり返すつまずき

体の反応として残ることがある

つらい記憶は、頭で「もう終わったこと」とわかっていても、体の反応として残ることがあります。ささいなきっかけで当時の感覚がよみがえるフラッシュバック、常に気を張っていないと落ち着かない過覚醒、逆に感情や現実感が遠のいてしまう解離などです。

こうした反応は、危険な環境を生き延びるために心と体が身につけた対処の名残であって、あなたの「弱さ」や「性格の欠陥」ではありません。フラッシュバックへの対処法については、別の記事で詳しく紹介しています(フラッシュバックへの対処とグラウンディング)。

さまざまな不調の背景になりうる

子ども時代の逆境体験は、大人になってからのうつ状態、不安、不眠、アルコールの問題、対人関係の困難など、さまざまな不調の背景要因のひとつになりうることが研究で示されています。

とくに、長期間くり返されたトラウマ体験のあとに、フラッシュバックなどの症状に加えて、感情調節の難しさ・否定的な自己イメージ・対人関係の困難が続く場合には、「複雑性PTSD」という診断が検討されることがあります。複雑性PTSDについては、こちらの記事で詳しく解説しています(複雑性PTSDとは――くり返されたトラウマがもたらすもの)。

いちばん大切なこと――過去がすべてを決めるわけではない

ここまで読んで、「やはり自分はもうだめなのか」と感じた方がいたら、立ち止まってください。この記事でいちばんお伝えしたいのは、むしろ逆のことです。

ACEの研究が示しているのは、あくまで集団としての統計的な「関連」です。専門書でも、逆境体験の有無やその多さだけで、個人の将来を決めつけてはならないことが強調されています。同じような体験をした人でも、その後の経過は一人ひとり大きく異なります。

その違いを生む要因のひとつが、「守ってくれる要因(保護因子)」の存在です。信頼できる大人がひとりでもいたこと、安心できる居場所があったこと、友人や学校、そして大人になってからのパートナーや支援者との出会い――こうした環境との関わりが、回復を支えることが知られています。

ここで注意したいのは、回復する力(レジリエンス)を「本人の強さ」や「我慢強さ」の問題にしないことです。専門書では、レジリエンスは個人の資質だけでなく、周囲の人や環境との相互作用のなかで育まれるプロセスとして捉えられています。つまり、「これまで回復できなかったのは自分が弱いからだ」という考え方は、医学的にみても正しくありません。回復に必要な安心できる関係や環境に、まだ出会えていなかっただけかもしれないのです。

そして、脳や心への影響についての研究知見も、「もう手遅れ」という結論のためにあるのではなく、早く気づいて支援につなげるためにあります。大人になってからでも、治療や環境の変化によって回復していくことは十分に可能です。

親との関係をどう考えればいいのか

このテーマで多くの方が悩むのが、親との関係です。

「親も苦労していたのだから、恨むのは間違いだろうか」「もう許さなければいけないのだろうか」――そう自分に問い続けて、苦しくなってしまう方がいます。逆に、湧き上がる怒りに戸惑う方もいます。

まずお伝えしたいのは、怒りも悲しみも、複雑に入り混じった気持ちも、どれも自然な反応だということです。そして、治療の目的は親を裁くことでも、和解や許しを強制することでもありません。目的はただひとつ、いまのあなたのつらさを軽くすることです。

また、専門書では、養育の問題の背景に、親自身の逆境体験、孤立、生活上の困難、心の病気などが重なっていることが多いと指摘されています。これは親の行為を正当化する話ではなく、「個人の悪意」だけでは説明できない事情が絡み合っているという理解です。この視点は、「自分が悪い子だったからだ」という長年の思い込みをほどく助けになることがあります。子どもだったあなたに、責任はありませんでした。

親との関係を今後どうするか(距離を置く、連絡を絶つ、関係を続ける)に、正解はありません。あなたの安全と心の健康を最優先に、時間をかけて考えていけばよいことです。

受診を考える目安

過去の体験そのものよりも、いまの生活にどんな困りごとがあるかが受診を考える目安になります。

  • 気分の落ち込みや不安、不眠が続いている
  • 昔の記憶が突然よみがえって、動悸や息苦しさが起こる
  • 感情の波が激しく、自分でもコントロールが難しい
  • 「自分には価値がない」という感覚が抜けず、生活に影響している
  • 人間関係で同じようなつまずきをくり返してしまう
  • つらさをまぎらわすための行動がやめられず、生活に影響している

こうした状態が続いて生活に支障が出ているなら、それは「性格の問題」ではなく、治療の対象になりうる状態です。なお、死にたい気持ちが強く迫っていて自分を抑えられそうにないときは、ためらわず救急(119)に連絡するか、通院中の方は主治医にすぐ相談してください。

当院での実際

当院では、18歳以上の方を対象に診療を行っています。通院頻度の基本は2週間に一度で、初診の所要時間の目安は問診を含めて30分程度です。初診前にWEB問診があり、予約はWEB(デジスマ)でお取りいただけます。

診察では、過去のことを無理に聞き出すことはしません。いま困っている症状の相談から始めていただけます。なお、ご家族のみの相談はお受けしていません。ご本人が受診に同意されたうえでの同席は可能です。また、アルコール依存症単体のご相談はお受けしておらず、ご自身で専門医療機関をお探しいただくことになりますが、紹介状(診療情報提供書)は必要に応じて作成します。

まとめ

  • 逆境的小児期体験(ACE)とは、子ども時代の虐待やネグレクト、家庭内の深刻な不和など、発達に負担となりうる体験の総称です。
  • こうした体験は、大人になってからの自己イメージ、感情調節、対人関係、心身の不調と関連しうることが研究で示されています。
  • ただし、ACEは統計的な関連を示す考え方であり、個人の将来を決めるものではありません。信頼できる人や安心できる環境との出会いが、回復を支えます。
  • 回復する力は「本人の強さ」だけの問題ではなく、環境との相互作用のなかで育まれるものです。大人になってからの回復は十分に可能です。
  • 過去を全部話す準備ができていなくても、いまの困りごとから相談を始めることができます。

長いあいだ、ひとりで抱えてこられたのだと思います。その生きづらさには理由があり、そして手当ての方法があります。よろしければ、いま困っていることから、少しずつお聞かせください。


参考にした書籍(要約・再構成。原文の転載ではありません):

  • 精神科治療学 第36巻第1号 特集「マルトリートメントを受けた子どもたちと精神科医療」(星和書店)

よくある質問

逆境的小児期体験(ACE)とは何ですか。

子ども時代に経験した、虐待やネグレクト、家庭内の深刻な不和など、心身の発達に負担となりうる体験を指す言葉です。海外の大規模な研究をきっかけに、こうした体験が大人になってからの心身の健康と関連しうることが知られるようになりました。ただし、体験があれば必ず不調になるという意味ではありません。

子どもの頃につらい経験があると、必ず病気になるのでしょうか。

いいえ。ACEは統計的な「関連」を示す考え方であり、個人の将来を決めるものではありません。同じような体験をしても、その後の人間関係や環境によって経過は大きく異なります。つらい体験があっても健康に暮らしている方は数多くいますし、いま不調があっても回復は十分に可能です。

親を許せない気持ちがあります。おかしいでしょうか。

おかしいことではありません。怒りや悲しみ、複雑な気持ちを抱くのは自然なことです。診療の目的は、親を裁くことでも、無理に許すことでもなく、いまのあなたのつらさを軽くすることです。気持ちの整理は、安心できる場で少しずつ進めていけば十分です。

昔のことを診察で話さないといけませんか。

話す準備ができていないことを、無理に話す必要はありません。診察では、いま困っている症状(眠れない、気分が落ち込む、人間関係がつらいなど)から相談を始めることができます。過去のことは、ご本人のペースで、話せる範囲で扱っていきます。

自分が複雑性PTSDかどうか気になります。

長く繰り返されたつらい体験のあとに、フラッシュバックに加えて感情の調節の難しさや否定的な自己イメージなどが続く場合、複雑性PTSDという診断が検討されることがあります。ただし診断は医師が総合的に行うものです。自己判断で決めつけず、まずは現在の困りごとをご相談ください。

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執筆・監修

精神保健指定医 野口晋宏

春日メンタルクリニック院長。精神科・心療内科の診療経験をもとに、受診前の不安や制度の疑問を整理しやすい情報提供を心がけています。

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