精神科や心療内科を受診しようと考えたとき、「子どもの頃のことや家族のことまで聞かれるらしい」と知って、気が重くなった方はいませんか。「今つらいのは仕事のことなのに、なぜ昔の話が必要なの?」「思い出したくない過去まで話さないといけないの?」――そんな不安から、受診をためらっている方もいらっしゃるかもしれません。
先に、この記事でいちばんお伝えしたいことを書いておきます。話したくないことは、話さなくて大丈夫です。 そのうえで、精神科医が生育歴(生い立ちの経過)をうかがうのには、きちんとした理由があります。
この記事では、連載「診察室の裏側」の第1回として、医師が子ども時代のことを尋ねる理由と、「どこまで話すか」を決めるのは患者さん自身であることを、福岡県春日市の精神科・心療内科の視点からお伝えします。
「生育歴」とは何か
生育歴とは、生まれてから現在までの育ちの経過のことです。診察では、たとえば次のようなことをうかがうことがあります。
- どんな家族のなかで育ったか
- 学校生活はどうだったか(友人関係、勉強、部活など)
- 進学や就職など、大きな節目でどんな選択をしてきたか
- これまでに大きくつらかった出来事はあったか
「調査」のように根掘り葉掘り聞かれるイメージを持つ方もいますが、実際には会話のなかで自然に、答えられる範囲でうかがう形がほとんどです。初診ですべてを聞ききることはまずなく、通院のなかで必要に応じて少しずつ、というのが一般的です。
なぜ「今の症状」だけでは足りないのか
「眠れない」「気分が沈む」という今の症状が分かれば診断も治療もできるのでは、と思われるかもしれません。たしかに、症状の確認は診療の出発点です。
しかし、精神科の臨床では古くから、同じ症状でも、その人にとっての意味や、効果的な治療は一人ひとり違うことが知られています。たとえば同じ「不眠」でも、昇進して責任が増えた人の不眠と、大切な人を亡くした人の不眠とでは、背景も、役立つ関わり方も違ってきます。
精神分析的な心理療法の分野で世界的に読まれているナンシー・マックウィリアムズの著書でも、診断名や症状のリストだけでは捉えきれない、その人固有の「主観的な世界」――何をどう感じ、何に苦しんできたか――を理解してはじめて、その人に合った治療を考えられる、ということが繰り返し強調されています。
生育歴は、その「その人固有の世界」を理解するための、大切な手がかりの一つなのです。
医師の頭の中――「ケースフォーミュレーション」という地図づくり
医師や心理の専門家が、症状・生育歴・現在の環境などの情報から「この方のつらさは、こういう成り立ちで生じているのではないか」という見立てを組み立てる作業を、専門用語でケースフォーミュレーションと呼びます。
難しそうな言葉ですが、イメージとしては「治療のための地図づくり」です。ポイントは3つあります。
1. 原因は一つではない、と考える
心の不調は、たった一つの原因で起こるものではなく、生まれ持った体質、育った環境、これまでの出来事、考え方の癖、現在のストレスなど、たくさんの要因が重なって生じると考えられています。生育歴を聞くのは「本当の原因を一つ突き止めるため」ではなく、重なっている要因を幅広く見渡すためです。
だからこそ、生育歴の質問は「親のせいにする犯人探し」ではありません。誰かを責めるためではなく、今のつらさの成り立ちを立体的に理解するためにうかがっています。
2. あくまで「仮説」であり、一緒に修正していく
ケースフォーミュレーションは、確定した答えではなく、あくまで仮説――大まかな下書きの地図です。マックウィリアムズも、見立てはごく大まかな地図のようなものにすぎず、治療のなかで本人の反応や新しい情報に応じて修正されていくものだと述べています。
つまり、初診で話した内容で何かが「決めつけられる」ことはありません。医師の理解が実感と違うと感じたら、「それはちょっと違う気がします」と伝えていただいて構いませんし、その一言が地図をより正確にしてくれます。
3. ストレスがかかると、昔の対処パターンが顔を出す
人は強いストレスを受けると、昔、似た状況で身につけた対処のしかたに戻りやすい、ということが知られています。たとえば「つらいときほど人に頼れず一人で抱え込む」という現在のパターンが、子ども時代に身につけた乗り切り方の名残であることもあります。
大事なのは、そうした対処のしかたは当時のその人なりの精いっぱいの工夫だったという見方です。過去を知ることは、今の自分を責める材料を増やすことではなく、「そうやって乗り切ってきたんだ」と理解し、今の生活に合った新しい対処を一緒に探すための土台になります。
話したくないことは、話さなくていい
ここまで生育歴の意味をお伝えしてきましたが、同じくらい大切なのが、どこまで話すかを決めるのは患者さん自身だということです。
精神科の面接について書かれた専門書では、初回の面接は情報を集めるだけの場ではなく、患者さんが安心できる関係をつくり、不安を軽くすることこそが大切だとされています。医師との関係づくりは、患者さんが診察室に入った瞬間から始まっており、それを整えるのは基本的に医師側の仕事です。無理に話させることは、この目的に反します。
ですから、次のことを覚えておいてください。
- 「そのことは今は話したくありません」と言ってよい。 医師はその意思を尊重します。むしろ「今は触れてほしくない領域がある」ということ自体が、無理なく治療を進めるための大切な情報になります。
- 少しずつでよい。 信頼関係ができてから初めて話せることは、誰にでもあります。通院を重ねるなかで「そういえば」と話したくなったときに話せば十分です。
- 覚えていなくてよい。 記憶があいまいでも、「あまり覚えていません」で構いません。正確さのテストではありません。
- 泣いても、まとまらなくてもよい。 途中で言葉に詰まっても、医師が質問しながら一緒に整理していきます。
初診全般で聞かれることについては、精神科の初診で何を聞かれる?うまく話せなくても大丈夫な理由で詳しくお伝えしています。
当院での実際
当院(春日メンタルクリニック)では、初診の前にWEB問診にお答えいただいています。事前に文字で書ける範囲を書いておけるので、「口では説明しにくいこと」を伝える助けになります。もちろん、問診でも書きたくない項目まで無理に書く必要はありません。
初診の所要時間は、問診を含めて30分程度が目安です。この時間ですべての生い立ちをうかがうことはできませんし、その必要もありません。まずは今いちばん困っていることを共有するところから始めます。
通院の頻度は2週間に一度が基本です。生育歴のような話は、通院を重ねて関係ができてくるなかで、必要なぶんだけ少しずつうかがっていきます。なお、当院の診療対象は18歳以上の方です。
ご予約はWEB(デジスマ)からお取りいただけます。
まとめ――過去を聞くのは、これからのため
精神科医が子ども時代のことを尋ねるのは、過去をほじくり返すためでも、誰かを責めるためでもありません。同じ症状でも成り立ちは一人ひとり違うからこそ、生育歴という手がかりをお借りして、その人に合った治療の「地図」を一緒に描くためです。そしてその地図は仮説であり、患者さんの言葉で何度でも描き直されていきます。
話したくないことは話さなくていい。少しずつでいい。覚えていなくてもいい。――そのことを知ったうえで、安心して診察室のドアを開けていただけたらと思います。
連載「診察室の裏側」の第2回では、医師が診察でよく使うたとえ話の意味を紹介しています。あわせてどうぞ:「バッテリー切れ」「心の骨折」――精神科医が診察で使うたとえ話とその意味
第3回は、中井久夫に学ぶ療養中の過ごし方です。
参考にした書籍(要約・再構成。原文の転載ではありません):
- ケースの見方・考え方 精神分析的ケースフォーミュレーション(ナンシー・マックウィリアムズ)
- 精神療法の基本――支持から認知行動療法まで(堀越勝・野村俊明)
よくある質問
子ども時代のことを聞かれたら、必ず答えないといけませんか?
いいえ。話したくないこと、まだ言葉にできないことは、話さなくて構いません。「そのことは今は話したくありません」と伝えていただければ、医師は無理に踏み込みません。それ自体が大切な情報として尊重されます。信頼関係ができてから、少しずつ話していただければ十分です。
過去のことを聞くのは、原因を親のせいにするためですか?
いいえ。生育歴をうかがうのは、誰かを責める犯人探しのためではありません。心の不調は一つの原因だけで起こるものではなく、体質・環境・出来事・考え方の癖など多くの要因が重なって生じると考えられています。過去の話は、今のつらさを理解し、これからの治療を考えるための手がかりの一つです。
昔のことをよく覚えていません。それでも大丈夫ですか?
大丈夫です。正確な記憶を求めているわけではなく、「あまり覚えていない」ということも含めて、そのままお話しいただければ十分です。思い出せる範囲の大まかな印象だけでも、治療を考える手がかりになります。
初診で生育歴をぜんぶ話しきる必要がありますか?
ありません。初診はすべてを話しきる場ではなく、まず今の困りごとを共有する場です。生育歴は通院を重ねるなかで、必要に応じて少しずつうかがっていきます。当院の初診の所要時間は問診を含めて30分程度で、その範囲でお話しいただける分だけで構いません。
話した内容が家族や職場に伝わることはありませんか?
診察でお話しいただいた内容には守秘義務があり、ご本人の同意なく家族や職場に伝えることは原則ありません。安心してお話しください。心配な場合は、診察のなかで医師に直接ご確認いただけます。