話しかけられたとき、最初の一言だけがどうしても聞き取れない。音は確かに聞こえているのに、それが意味のある言葉になるまでに一拍かかる。思わず「え?」と聞き返した直後に、「ああ、そういうことか」と分かってしまい、気まずい思いをする——。
こうした聞き取りの困りごとは、発達障害(自閉スペクトラム症=ASD、注意欠如多動症=ADHD)の方から、診察室でもよくうかがうお話です。
「ちゃんと聞いていないだけでは?」「集中力の問題では?」と言われて、傷ついた経験をお持ちの方もいるかもしれません。ですが、これは努力して聞いているのに、届かないという体験です。決して、聞く気がないわけでも、わざと聞き返しているわけでもありません。
この記事では、この現象について今の医学で分かっていること・まだ分かっていないことを、できるだけ正直にお伝えします。
「聞こえている」と「言葉として分かる」は別の段階です
耳は、音を集めるマイクのような器官です。しかし、マイクが音を拾っただけでは、まだ「言葉」にはなっていません。拾った音を脳が解析して、初めて「おはよう」「これお願い」といった意味になります。
たとえるなら、外国語の映画を字幕なしで観ているときに近いかもしれません。音声ははっきり聞こえているのに、意味が頭に入ってくるまでにワンテンポ遅れる——あの感覚です。
ですから、聴力検査が正常でも、聞き取りにくさが「気のせい」だということにはなりません。耳の性能と、音を言葉に変換する脳の処理は、別の段階だからです。
研究で分かっていること
脳の反応がわずかに遅いという報告があります
自閉スペクトラム症の方では、音に対する脳の反応そのものがわずかに遅いことが、複数の研究をまとめた解析で示されています。また、音を「意味」として処理する段階の脳波の立ち上がりが遅れる、という報告もあります。
ただし、ここで正直にお伝えしたいことがあります。研究で実際に測定されている遅れは、数ミリ秒〜数十ミリ秒(1000分の1秒単位)という、ごくわずかなものです。「え?」と言ってから分かるまでの体感の1〜2秒を、この測定結果がそのまま説明できるわけではありません。体感の遅れと脳波の遅れの間には、まだ埋まっていない距離があります。
「静かな1対1なら平気」なのは、研究とも一致します
「静かな場所で1対1なら普通に話せるのに、ざわついた場所や複数人の会話になると急に難しくなる」——このパターンには、研究の裏づけがあります。
自閉スペクトラム症の方の聞き取りにくさは、機械音のような一定の雑音の中では意外と目立たず、「人の声が混じる状況」で強く現れることが、複数の研究を検討したレビューで示されています。自閉スペクトラム症の成人を対象にした調査でも、多くの方が「大勢の中での会話は非常に難しい」と答えています。
つまり、「会議や飲み会だけダメ」なのは、気合いの問題ではなく、状況そのものの難易度が違うのです。
注意の「切り替え」との関係も指摘されています
聴力検査は正常なのに聞き取りにくさを訴える成人を調べた研究では、注意の切り替えの苦手さが、聞き取りにくさの強さと最もよく関係していたという報告があります。別のことに向いていた注意を、話しかけられた声にパッと切り替える——その切り替えに時間がかかると、会話の「出だし」を逃しやすくなる、と考えると、多くの方の体験と符合します。
「え?」の直後に分かる——なぜ?
聞き返した直後、相手が繰り返す前に意味が分かってしまう。この不思議な現象を直接調べた研究は、実はまだ見つかっていません。当事者の方の体験談としては非常によく語られるのですが、医学研究の対象にはなっていないのが現状です。
その上で、説明の候補として、次のような考え方があります。推測であり、確かめられたものではないことにご注意ください。
人の脳には、聞いた音をそのまま数秒間だけ保持しておく仕組み(反響記憶と呼ばれます)があることが分かっています。「え?」と言っている1〜2秒の間に、保持されていた音声の解析がちょうど追いつくのではないか——という考え方はありますが、これを直接確かめた研究はまだありません。
いずれにしても、「後から分かる」ということは、音の情報自体はきちんと脳に届いているということです。聞いていないのではなく、変換に時間がかかっている——その可能性を示す現象だと言えます。
電話がつらいのには、物理的な理由もあります
「対面ならまだしも、電話が本当に苦手」という方は多くいらっしゃいます。これには、はっきりした物理的な理由があります。
- 従来の電話は、およそ300〜3400ヘルツの範囲の音しか伝えません。「さ」「し」「た」などの子音を聞き分ける手がかりは高い音に多く含まれるため、電話ではその手がかりが削られてしまいます。
- 相手の口の動きや表情が見えません。口の動きが見えると聞き取りの負担が軽くなることは、研究でも示されています。
つまり電話は、もともと誰にとっても条件の悪い聞き取り環境です。聞き取りに人一倍のエネルギーを使っている方にとって、そこがいっそうつらくなるのは自然なことです。
実は、誰にでも起こる現象でもあります
大事なことをひとつ付け加えます。別の作業に集中しているときに話しかけられて、最初に気づけないのは、誰にでも起こります。
視覚的な作業に集中していると、聞こえているはずの音に気づきにくくなることは、健康な方を対象にした実験でも確かめられています。パソコン作業に没頭していて、名前を呼ばれたのに気づかなかった——という経験は、多くの人にあるはずです。
発達障害の方では、こうした状態がより起こりやすいのではないかと考えられますが、これも直接比較した研究が確立しているわけではありません。いずれにせよ、「出だしを逃す」こと自体は人間の仕組みとして自然な現象であり、あなたの怠慢や性格の問題ではありません。
「APD(聴覚情報処理障害)では?」と思った方へ
インターネットで調べると、APD(聴覚情報処理障害)という言葉に行き当たるかもしれません。「聴力は正常なのに聞き取れない」状態を指す言葉として使われています。
ただ、知っておいていただきたいのは、APDの診断基準はまだ定まっていないということです。同じ人たちを調べても、どの基準を使うかによって「APDと診断される割合」が大きく変わってしまうことが報告されています。このため近年は、APDという診断名よりも、「聞き取り困難(LiD)」という症状としての捉え方が国内外で推奨されつつあります。
また、同じような聞き取りにくさは、発達障害だけでなく、軽い難聴、睡眠不足、疲労、不安、うつ状態などでも起こります。「自分はAPDだ」「発達障害だからだ」と自分で決めてしまう前に、まずは耳鼻咽喉科で聴力検査を受けて、耳そのものの問題がないかを確かめることをおすすめします。順番として、ここが最初です。
日常でできる工夫と環境調整
この困りごとを「治す」確立された方法は、残念ながら今のところありません。ですが、状況の難易度を下げる工夫には現実的な価値があります。
- 大事な連絡は、電話よりメールやチャットなど文字でやり取りできる手段をお願いする
- 話しかけてもらうときは、先に名前を呼んでもらう(注意が向いてから本題が始まるようにする)
- 会議や集まりでは、なるべく静かな席・話し手の顔が見える席を選ぶ
- 聞き逃したときのために、「もう一度お願いします」を気軽に言える関係を、可能な範囲でつくっておく
- 大事な内容は、後から文字で確認できる形(議事録、メモ、チャットのログ)を残してもらう
職場や学校に伝える場合は、「聞こえていないのではなく、音が言葉になるまでに時間がかかることがある」「最初に名前を呼んでもらえると助かる」のように、具体的なお願いの形にすると伝わりやすくなります。
当院での診かた
当院(春日メンタルクリニック)では、聞き取りの困りごとを単独の症状としてではなく、生活全体の困りごとの一部として一緒に整理していきます。
- まだ聴力検査を受けたことがない方には、先に耳鼻咽喉科での聴力検査をおすすめしています。耳そのものの問題を確かめておくことが、遠回りのようで一番の近道です
- どんな場面で困るのか(電話・会議・雑談など)を具体的にうかがいます
- 発達障害の特性との関連や、睡眠・疲労・不安など他の要因の影響を検討します
- 職場や学校への伝え方、環境調整の相談にも応じます
「気のせい」「集中力の問題」と片づけられてきた困りごとに、名前と輪郭を与えて、対処できる形に整理していくこと。それが診察でできることのひとつだと考えています。
聞き取りの困りごとに加えて、対人関係の疲れやすさ、忘れ物・段取りの苦手さなど、思い当たることが重なっている方は、一度ご相談ください。すぐに診断や治療が必要とは限りませんが、ご自身の特性を知ることが、働き方や暮らし方の工夫につながることがあります。